発創アリ。

2017 06
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一番大切なC


Plan-Do-Check-Act。
略してPDCA。


目標を達成するための思考法、フレームワークとして
広く知られています。


先日

自分の仕事の振り返り(チェック)をどのようにしているか
そもそもできているか

という問いに触れる機会がありました。
話題にのぼったのは

目標と指標の整合性
指標に対する納得度
指標のための情報収集の方法
指標の見直しの機会

などでした。


いろんな方の意見に耳を傾けながら
ひとつの大きな確信に改めて至りました。


チェックの中で、一番大切なのは


自分が大目標(理想)を忘れていないか?
その目標が達成できた時の状況をありありとイメージできるか?


である、ということです。


チェック=指標の確認は目標達成のための手段であり
指標が達成されて、目標を忘れれば、なんの意味もありません。


達成すべきことに、最も脳を使うことが必要であり
そのための手段=指標達成に右往左往しては本末転倒でしょう。

そして、私たちは
卑近な目標=指標に目を奪われやすく
結果として、目標達成をリアルに描くことを忘れます。
そういう思考上の弱点を誰もが持っています。


であれば、こまごまとしたチェックをする前に
自分の大目標を定期的に、ありありと思い描くこと
目指すことを忘れていないぞ、と確認すること

これこそが、究極のチェックであり
それをせずに、指標のチェックをしたところで
なんの意味があるでしょう。


究極の理想で脳を一杯にすること。
そのためだけに脳を使うこと。

単純なことですが
簡単ではありません。


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残り何分か?



ビデオの早送りをめぐっては
以前も記事にしました。


面白くないところ、平坦な描写のところを早送りして
盛り上がる場面だけを飛ばし観ることで
インプット効率は上がります。


でも、ジワジワ盛り上がってきて、時に一息いれる場面があり
ぐ~っとピークに盛り上がる、というような
全体文脈の中に身を投じる経験は失われます。


最近は、DVDになって
全体がいくつかのキャプチャーにわかれていて
いまがどの部分なのかがリアルタイムにわかります。


そうすると、余計に
意識が全体と今現在の場面の間を行き来して
没入への道が遮断されている気がします。


残り何分か?あといくつチャプターがあるのか?


を気にして、そこから次の展開を読む。
みたいな見方をしてしまう。


現実は、無限に続く(と思える)時間の中で
次のキャプチャ展開もわからないままに
自らが主人公となって振る舞います。


。。。と、ここまで書いてきて
もともとは、早送り、先読みのスタンスにブレーキを
かける記事にするつもりでしたが


なんだか、そういうのもアリのような気がしてきました。


必ず死ぬのだから。
死という終幕をイメージして
先のキャプチャーをデザインし
日々それをイメージし、修正しながら生きる。


自分の日常を
終幕に向けた一巻のDVDに編集するつもりで
生きてみようかと思いました。

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テキストを捨てて町へ出よう。




研修を担当させていただく時に
いつも、ふっと弱気の虫に襲われることがあります。


作り込みたい、という欲求です。



この研修で学ぶべきこと、身につけるべきことを
テキストとして一覧化し、後で役に立つようにしよう。。。


という欲求に襲われます。
そうした方が、研修の成果は安定しますし
受講してくださるみなさんの満足度も上がることが多いからです。


でも、しかし、それは違う。。。と自分に言い聞かせて
踏みとどまり、いかに皆さんと対話を紡ぐか
その「問いかけ方」に腐心するモードに戻ります。


私たちは、いや、少なくとも偏差値競争まっただ中だった僕は
テキストの学び、を非常に好みます。

学ぶべきことが明示され、わかりやすく教授され
脳内に刷り込んで、正確にアウトプットする。

アウトプットの評価は
テキストの再現性における正確さと明快さ。


このような学びのプロセスそのものに
少なからず快感を覚えるのです。


でも、しかし、それは、現実の中で万能ではない。
いや、むしろ、役に立たないことの方が多いかもしれない。


現実は「即興」で成り立っていますから。
準備を超えた、降ってきた現実に、いかに「ありあわせ」で対応するか?

その能力こそが、学ぶべきことで
それはテキストに一覧化できない。


テキストからの学び
テキストの再現という成果の出し方を卒業して

現実体験からの学び
現実を変革するという成果の出し方へ入門しなければならない。


テキストを捨てて現実の中に我が身を放擲しよう。

いざ、町へ。


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枠の外に立つ覚悟




中野民夫さんのワークショップに参加した時


ワークショップは人の出会いやつながりを促す。
一方で、丁寧にお膳立てされた環境の中でしか
つながれなくなる、弱い人を作るリスクがある。


という趣旨の提起がなされました。(細かい表現は記憶していません)


もともと、ワークショップの人工性に違和感を持ちながら
ファシリテーションしていたこともあり
以来、ずっと


どうしたら人を弱くしないワークショップができるのか
いや、そもそも、もしかしたら
ワークショップというお膳立ては害悪なのか
だとしたら、人のつながりを促すには、どうすればいいのか


といったことを考え続けています。



今のところ、やはり
ワークショップという人工的な出会い空間は意義がある
と考えています。


日常から切り離された空間と時間で
リラックスでき、深く感じ、深く対話し
問いを投げかけあう。


それは、確かに人を学びと成長へと促すからです。
ただ、少なくともあとひとつ、問われなければならない問いがあります。


ワークショップを終わる前に
それから、終わった後もずっと


あの非日常の中で、何が自分を開放し触発したのか?
それは、日常では、どう実現できるのか?


という問いです。


リラックスして人と向き合う。
問いを共有する。
思いを受けとめあう。
違いの先を想像/創造する。


このようなことを、日常で行なうという覚悟なくしては
ワークショップは、ただの過保護に堕してしまいます。


ワークショップという過保護空間は
あくまでも保育器、学校という枠の中であり

その外に自律して立つことにこそ
その枠の意味がある、ということを忘れてはならないはずです。


枠の外に立つ覚悟を決めるために
枠の中の温もりを味わい尽くす。


そんなワークショップを生み出していきたい
と覚悟を決めています。


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ルールの周辺。



ルールがルールのために機能してはいけないことぐらい
誰でもわかります。

とは、いうものの
実際には、ルールの是非を巡った議論ばかりで
ルールの意義/意図に目を向けられることが少ないようです。


ルールは目的とセットであり
ルールはプレイヤーとセットであり
ルールはゲームに勝つためにあります。


いったい、何のためにそのルールがあるのか。
誰と誰が関与するものなのか。
プレイヤーが参加しているのは、どんなゲームなのか。
敵は?勝利の定義は?


そのような問いが、ルールの周辺にはリンクされており
それ抜きにルールのみを議論することは不毛です。


先の天皇面会をめぐるルール議論は
目的とプレイヤーとゲームの定義を忘れた状態で
行なわれているようにも思いました。


同じチームのピッチャーとキャッチャーが
自分の都合を押し付けあっているようなものです。
チームメイトなのに、まるで敵であるかのように。


誰と誰が、何を目指してチームを組むのか。
そのチームには、どんなルールが必要なのか。


そのような対話こそ必要でしょう。

「あうん」では通じられない他者だからこそ
チームになるために、ルールが生まれ
対話を通じて、常に更新されることを願います。
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あうんの外で



ディーラーさんで冬タイヤに換えてもらいました。


ちょっとした手違いがあって
日曜に行ったのに、その時はできず
今日、やっと終了。
明日から雪のようで、どうやら間に合って、ホッ。



今日は、日曜の手違いの時に担当してくれた人がいなくて
違う人が担当でした。

この前の人なら、「あうん」の呼吸で
何の説明もいらずに、すぐ作業に入ってもらえますが

違う人だと、「この人は、どのくらい知っているんだろう?」
ということを考えながら、イチから説明しようか、そもそもどうやって説明しようか
などという思いが脳内を巡ります。

瞬時に説明するには、込み入った手違いだったので。


幸いにも、たどたどしい僕の説明にも関わらず
すぐに察してくれて、スムーズに交換が終わりました。


「あうん」だったら使わなかった脳味噌を使い
日曜から今日までに、タイヤ交換をめぐって何が起きていたのか
を、整理することになりました。はからずも。


「あうん」が通用しないところで
コミュニケーションを取るということは
「あうん」が通用する場合と比べて
脳の使い方も、使う密度も、格段に違うんだと感じました。


このような時にこそ
自分を相対化できるし、新しい気づきもあります。


もし日常が「あうん」であふれていたら
気持ちいいかもしれないけれど
学びと成長の機会は、とても少なくなるでしょう。


「あうん」の外に出て行くことを
自分に課していこうと思った出来事でした。



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メンツがルールを。



600人の大軍団を率いて訪中した
強面の政治家が


中国の要人と天皇とが会うことに
手続き上、健康上の問題があると反対した
宮内庁の上級官僚に


政治家に逆らうならやめる覚悟をしてからだ。


という意味の発言をなさっています。



宮内庁は
従来から、相手国の大小に関わらず守ってきたルールを
おそらく実直に守ろうとし
天皇が政治目的に利用されることを防ごうとし


大物政治家は
外交上の意義を優先して、多少のことには目を瞑れと言い
それは、多分にメンツを守ることも含まれ
しかし、外交とはメンツであることも、おそらく確かで。。



政治主導であろうが
官僚主導であろうが


両者の間に、つまり
この国をどこへ持っていきたいのか
両者にとって、一番大切なことは何か
といった対話、合意がなされないことには


ただのメンツの張り合いになります。


メンツがルールを守らせ
メンツがルールを変えよと恫喝する。


ルールとは
共通の目的のもとに
お互いの活動を調整する手間を省くためにあるはずです。


メンツを抑え込むようなルールを
築き上げるような関係になってもらいたいと願います。






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参入障壁をめぐる。



規制緩和によって
今までにはあり得なかった競争状態を招き
みんなそろって息も絶え絶え。


よく見聞きする話です。


ビジネスはプレイヤーが少ない方が
戦いやすく、勝ちやすいですから
いかに新規参入のしにくいフィールドを選ぶか
ということが、大切であることは、誰もが知っています。


いわゆる参入障壁です。
障壁が高ければ、見込み有りのフィールド。


この障壁の基礎を法律に求めてしまうと
規制緩和に対して、対応できずに
競争の渦に巻き込まれることになります。


法律によって築かれた参入障壁は
幻想にすぎない、一時的なものにすぎない、のだと思います。

幻想が晴れるまでに、障壁が瓦解するその瞬間までに
十分に、自分の心身を、自分を基礎とする障壁で被う必要がある。

不況なときは資格を取った方が。。。と言われますが
これも、同様に、幻想、一時的な障壁にすぎないでしょう。

法律に守られた資格も、そうでない資格も
なんだか、プロっぽい雰囲気を醸し出すのには、ある程度有効ですし
国家資格なら、仕事を守ることもできます。

でも、その「守られ感」が自分をダメにしていく
ということも多々あります。
簡単に言うと、「安住」してしまうということです。


法律でも、資格でもない、独自の障壁を自分を根拠に築く。
あらゆるビジネスで必要なことだろうと考えます。
他者依存の障壁は、瓦解する運命にあるでしょうから。


一方で、「自分にしかできない」という独自性を障壁にした場合の
リスクにも十分な注意を払わなければなりません。


リナックスやグーグルをはじめとして
自分の独自性を「開放」してしまって誰もが使える状態にし
自分のフィールドへの「参加者」を爆発させることを
自分の強みに変えていく、という戦略があるからです。


ここで言う「参加者」とは新規参入する競合ではなく
「支持者」「協力者」という意味になります。

フィールドへの参加者が爆発していく過程で
相互に補完、触発しながら、フィールドそのものが大きくなっていく。


自分の独自性を孤高のものと評価してしまうと
この開放戦略の前に、なす術がありません。


参入障壁とは、何も受け付けない鉄壁ではなく
自らも外に働きかけ、外からの働きかけも選択的に通す
透過性の高い鎧、という、アンビバレントな解釈を持つべきなのでしょう。


自分とは自分によって成り立つ者ではなく
世界とのつながりの中でこそ成り立つ者である
という単純な命題に落ちつくわけですが。。。

競争すると、そういうことを
いとも簡単に忘れます。

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尊敬と夢と。



先日、ある講義で


自由/健康/尊敬/財力/家族/夢/才能


という7つのキーワードを示して


「あなたが生きていく上で
 大切なものから順に並べ替えてください」


という問いかけをしました。
学生たちに、相互理解と対立解消のプロセスを
感じてもらおうと意図した課題です。


その講義が終わって、片付けをしていると
ひとりの学生が近づいてきて

「先生は、この中で何が一番ですか?」


と問われました。


問いを出しておきながら
実は自分では考えてなかった(なんていい加減。。)ので
その場で、「ぎゅっ」と集中して考えたら

「ふっ」と納得できる答えが浮かびました。


尊敬と夢。


この二つが1位と2位を争うだろうな、と。


健康も自由も家族も大切だし
できれば、財力も才能も欲しい。


けれども、その源は、尊敬と夢。


夢見ることだけは忘れたくない。
それこそが、生きるエネルギーを生んでくれるから。


夢だけを見つめて、人を、自分を見失うことのないように
人を、自分を、肯定的に受けとめ、尊敬することを忘れたくない。
それこそが、成長のエネルギーを生んでくれるから。


生きて、成長できれば
多少の不自由は、不健康は、乗り越えられる気がします。


生きて、成長できれば
様々な人とつながれるから
自分の才能にだけ、頼る必要もないでしょう。
家族とも幸せを築けるはず。


ひょっとしたら
財力のオマケがつくのかも。


そんなことが、一瞬の間に
頭に巡りました。


問いかけてくれた学生さん、ありがとう。


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主旋律がアドリブを。




場のライブ感を大事にしたいので
講演でも研修でも原稿は作らない

ということは、何度か書いてきました。


参加者の反応を見ながら
一緒に場を創っていくことを
何より大切に、そして楽しみにしています。


お互いのアドリブで構成された場を創りたい
といつも願っています。


でも、コケる時も、あります。

アドリブが噛み合なかったり
そもそもアドリブが出なかったり。


参加者との「ノリ」が合わない状態です。


最初から最後まで合わない、という経験は
今のところ、ありません。が。。

一番、ノリのズレが生じるのが
出だしの部分です。最初の10分。


あらら。。今日の皆さんは、どぉ~も、乗ってくれないなぁ


と冷や汗をかくことも、多々あります。
なんでなのか、とふりかえって気づいたのが


主旋律とアドリブの関係


です。
ノリが引き出せないときは
僕が主旋律をいい加減に終わらせてしまった時です。
で、みなさんのアドリブがズレたり、出なかったり。


主旋律とは
講師の「自己開示」と
講座の「モード(狙う雰囲気、テーマ、進め方)」
のことです。

自分のことを十分に話さない講師には
誰も心を開かないですから、アドリブなんて出ません。

講座が、どんなモードで進むのか、を講師が心身で表現しないと
誰も安心して乗ってきません。乗ってもズレます。


参加者主体の講座を目指す、といっても
やはり、起点と基盤は、講師の存在(人としての在り方)にある
ということを、考えさせられます。



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