発創アリ。

2017 08
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学ぶということ。
学ぶということは
実践への動機を手に入れると同義であるべきです。

確かに「教養」に類する学びは直接実践には結びつかないように見えます。実践は「実学」の中においてのみ成り立つように見えます。

狭い意味においてはそうです。
もう少し「実践」を広くとらえ
実践=自らを動機付けて行動する
とするなら

あらゆる学びは、実践に結びつくべきです。

知ったら終わり、は学びではない。
「私は~を知っています」は学んだことにならない。

何かを学んだなら
その影響のもとで
自ら動機付けられて行動する範疇が広がらなければならない。

たとえ文学のような行動との連関性が低いものであっても
自ら思索する(できる)範疇が広がってこその学び
思索が広がった結果、行動が変容してこその学び
だと思う。

自分の反省も含めてだが
「知ったら終わり。私は~を知っている」式の学びが
多すぎないか。世の中にあふれていないか。

つまるところ
「伝えたら終わり。脳みそに詰め込んだら終わり」式の「教え」が
多すぎないか。
何の実践ももたらさない、行動変容ももたらさない「教え」があふれていないか。

教えとは、学びとは、どうあるべきか。
学校教育も、社会人教育も、無反省にすぎたのではないか。


学ぶとは
学んだこと(の応用)を現実の中で実践する動機
を手に入れること。

学ぶとは
知った、ではなく
さらには、できるようになった、ですらなく
知ったことが、できるようになったことが
やりたくなる、やるべきだと感じる
ようになることである。


学ぶ側も、教える側も
そういう意識を持たなければならない。



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ISO的なもの。
当研究室の代表は以前、ISOコンサルタントを
生業としておりました。

その時以来、感じ続け、当研究室設立の動機にもなったこと
について書いてみます。

どうしょうもなく自律性、創造性を失っているように見える企業
そして、それを加速させるかのようなISOの影響についてです。

ISOとは国際標準化機構という組織の略号です。
ネジやフィルムの感度や非常口のマークなどなど
世界共通にしておいた方が良いと判断されるものの
標準化=規格化をしています。

その規格の中に
環境のISO14001とか品質のISO9001とか
マネジメントシステムの国際規格があります。

今はだいぶ落ち着きましたが
数年前まではISO狂想曲とでも言いたくなるくらい
中小企業までが競ってISO認証を取得していました。

理由のひとつは
取引先の大企業に要求(脅迫?)されるから
もうひとつは
行政に推奨(脅迫?)されるから
です。

ISO認証を持っていないと取引しないよ
みたいに言われるわけです。

ISO認証の本当の狙いは
しっかりしたマネジメントを行っていることを審査
安心できる企業であると認めよう、安心できる企業を増やそう。
といったものでした。
行政の狙いもこれに一致しています。

ところが、実際に起こっていたことは…

簡単にISO認証を取るには?的なコンサルであったり
手に取るようにわかるISO規格?的な解説本であったり
何より最悪なのは
審査の時だけしっかりとしたマネジメントの振りをして
ちゃっかり認証取得し、あとは元の木阿弥の企業…

こんなことばかりがISO市場では起こっていました。

企業をマネジメントするとは
どこかにテキストがあって、そのとおりにすればできることではありません。
コンサルタントや解説本に従って、マニュアルをあれこれ作ってみても成果が出るものではありません。

子供の教育と同じで、目の前の社員をしっかりと見つめて
その一人一人に対して、経営者としての信念を持って語りかけていってこそのマネジメントです。

なのに、企業は「国際的に通用する」ISOマネジメントに飛びついた。
まるでそれが「答え」であるかのように。
結果として、日本全国に、そっくりのマネジメントマニュアルがあふれかえっています。
使えないマニュアル、使えないマネジメントが。

マネジメントに原則はあっても、その適用は自分の頭と心と体を使って考え抜くもの。ISOが示したのは原則の「さわり」程度です。

行政はISOを使って
まるで金太郎飴のように、規格品の「すぐれた企業」が量産できる
とでも思ったのでしょう。

でも、出来上がったのは、今まで以上に「よそのお手本」に依存する自立心と創造力のない企業群です。

ISOのコンサルをしているとよく尋ねられました。
「このISOの条文について、何をすれば審査に通りますか?」

…唖然、呆然、愕然の毎日でした。

ISOに書いてあったら、審査員が求めたら、何でもしそうな気がして。
ISOに書いてなかったら、審査員が求めなかったら、何もしなさそうな気がして…

常に、こう答えました。
「その前に、あなたの会社では何を実現したいのですか?」
「何をすることに充実感を感じますか?」


ISOが企業と行政の他人任せなメンタリティーを浮き彫りにしただけで
それ自体には罪がないのかもしれません。

あらゆる人は、組織は、自分の外に、楽に手に入る「答え・お手本」を求める弱さがあります。どんなに強い人にでもあるでしょう。

でも、それに飛びついてはいけない。
自分たちの中にある、自分たちが生み出しうる
自分たちだけの「何か」を捜し求めることをこそ
まず始めにすべきだと思います。

まず自分を、自分の脳みそと身体を信じてみる。
そして仲間を信じてみる。
正解を外に求めない。

そんな姿勢こそが必要なのではないでしょうか。
これからの時代は創造性こそがすべての源でしょうから。

ISO的なものを外に求めるのはやめにしましょう。




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見えたとおりか?

デザイナーの方との対話の中でも

見る」という行為

が話題になりました。

見えているのに、実は、見えたとおりには受けとめていない
というお話です。

絵を描くときに、モノでも人でも「輪郭」を無意識に描きますが
実は、輪郭があるモノも人も「ない」んです。

これは、よ~く目を凝らすまでもなく、わかるはずのこと。
どう見ても、モノとその周りの空間との間に、その境目を表す「線」はない。
でも、私たちは、まず輪郭線でその形を描いていきます。

見えていないものを、疑うことなく描いています。

もっと専門的になると
描こうとしているモノの裏側まで見て描いた絵と
単純に見えるところだけを写し取った絵には
違いが出るものだそうです。
わかる人が見る

裏側が描けていない

と評価されてしまう。

その方は、ちゃんと見るために
1週間も同じ対象を見続ける
という訓練を繰り返していたそうです。

見ては描き、消して、また見ては描く
その繰り返し。

そして、ある時
見えたとおりに描く方法がつかめるのだそうです。

形も質感も、そして見えていないところまで
いかに、描く

がつかめる。


「見えている」「見ている」

と私たちは簡単に自覚し、口にしますが
実は
見えていても、そのとおり、表現できていないことが
多いのではないでしょうか。

自分がどのように見ているのか
知覚を自覚し表現するのは
そんなに易しいことではないようです。

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「看る」ということ。
「働かないって、ワクワクしない?」という本の中でも
見る」という言葉に出会いました。
そこではあえて「看る」と標記されていました。

働かないって、ワクワクしない? 働かないって、ワクワクしない?
アーニー・J. ゼリンスキー (2003/09)
ヴォイス

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この中で、禅の老師が「満ち足りた人生を送るための三つの秘密」を語る話が紹介されています。その3つとは…

1.看よ
2.看よ
3.看よ

…です。ここで言う「看る」とは「注意深く見る」ことです。満ち足りた人生を送る人は、常識や固定観念にとらわれず、現実を注意深く見つめ、プラスの側面もマイナスの側面も見出し、チャンスを逃さない。
「看ない」人は、自分が狭い見方をしていることに気づかず、チャンスを逃す。

そんな話でした。

見る」なんていう行為は、目を開いている限り自動的に生じるもので、あまり意識していませんが、ここが落とし穴なのでしょう。

自動的にやっていると思っている限り「看る」ことはできません。
実は自分の固定観念が見せている現実を、本物の現実だと思い込んでいることに気づきません。

心がけたいこと。それは

いつも一所懸命に、でも肩の力を抜いて「看る

です。
自分の前に何が開けるか?
それは、自分が何を「看るか」にかかっているのですから。


前掲書は、決してニートの薦めではありません。
クリエイティブに生きるための啓発書とでも言うべきもので
とても示唆に富んでいます。お勧めします。






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目は脳の一部です。
数日の間に

見る」という行為

について考えさせられることが続きました。
新聞記事から、書籍から、そして対話の中で。


最初は、右教育を紹介した新聞記事で。

「目はの一部です」

何を見ているか、が思考に影響を与える
といった文脈だったように思います。
紹介の文章の中で、この部分だけが、なぜか記憶にひっかかりました。

日常を振り返れば
見えているものから思考を組み立てることは非常にスピーディーに
かなり自動的に行われます。
人に出会ったときのファーストインプレッションが一瞬の内に
「立ち現れる」ように、それはまるで自分の意思とは無関係とも思えるスピードで、「見た瞬間」に思考が組み立てられ「相手の印象」を結論付けます。

ここから学べること。

あらゆる日常での思考も感情も「見る」ことから大きな影響を受けているのだから
思考や感情を意図する方向へ発展させるために
見る」ことを「手段」としてもっと活用できる可能性がある。

ということです。
対話場面で、話の内容を「書く」、行為として示す、話題の「実物」を持ってくる、などをもっと活用すると、思考も、思考と思考の相互作用である対話も深まっていくのではないでしょうか。


こんなことを考えていたら
書籍でも、とある対話の中でも
見る」という行為に出会いました。

続きはあらためて。

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キャリアという考え方。

チームの活力は、どんな時に最大化し、かつそれが継続的に発揮されるのかと考えてみると

個人がチームの中で、長期的な夢を見られる時だ

と言えるのではないでしょうか。

カタカナを使うと、
チームのビジョンに自分のキャリアを重ねてイメージできる時、人は活力にあふれ、献身を惜しまず、
そんな人たちの相互作用は、足し算をはるかに超えた相乗効果として成果に現れるのではないでしょうか。

つまり
チームを率いている人は
メンバーにキャリアを描かせるようなビジョンを示しているか
身近に感じられるように咀嚼し反復し伝えているか
そこが常に問われるのでしょう。

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