発創アリ。

2017 10
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余命を思うと




16年前の今日、国民的な人気を博したアナウンサー/司会者が
48才の若さで、ガンでなくなったことを
先ほど、テレビ番組で知りました。


黒沢明監督の「生きる」に自分を重ね
「命みじかし、恋せよ乙女」と歌っていたとか。


自分が余命について考えるには
「まだまだ若い」と思っていて
でも、心のどこかでは、「いつ何があるかわからない」
とも思っています。


「まだまだ若い」の根拠は
90才になっても元気な祖母を日頃見ているから
というのが一番大きいです。


祖母の年まで、あと52年もあります。
これまで生きてきた年数よりも、遥かに長い時間が待っている。
であるなら、余命なんて、と思えます。


一方で、先ほどのアナウンサーの件に触れると
「いつ何があるかわからない」という思いが頭をもたげてきます。
20代でなくなる人だって、少ないけれど、確かにいます。


病だけが死因ではないし。



「まだまだ若いから」と「いつ何があるかわからないから」の間には
生きることと時間の流れに対する考え方に
大きな隔たりがあるように思えます。


「若いから」という考えは
生きるとは「時間の積み重ねである」という前提に支えられ

「何があるかわからない」という考えは
生きるとは「今、この瞬間に命を燃やすこと」が前提です。


若いが故に
半永久的に流れていくような時間感覚の中では
「今この一瞬」を掛け替えのないものと捉えるのは
困難を伴います。


無限に思える時間があるからこそ
夢を描ける、けれど

冷徹なまでに有限だからこそ
今このときを燃やそうという気持ちが生まれる。


両親や祖母や、なくなった祖父を想い
これから時を過ごす妻や娘を想う時

無限と有限の間に
橋渡しがなされるように感じます。


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