発創アリ。

2017 06
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事実はどこにあるか。




大学時代に
エドモンド・フッサールという哲学者のことを知り
彼の創始した現象学という思想に魅了され続けています。



僕がファシリテーターを志した源体験は
少年時代まで遡りますが
理論的な確信、基盤のようなものを与えてくれたのは
まぎれもなくフッサールの現象学です。



主観はいかにして
客観的事実を捉えうるのか?



という哲学史上の巨大テーマを



客観的事実の存在は証明しえず
その確からしさが主観の志向性によって
構成される。



という構図の転換によって乗り越えようとしたところは
対話の可能性を大きく拓いて見せてくれました。



誰からも独立して存在する事実の存在は証明できない。
できることは、私にとっての事実の認識。
そして、私たちにとっての正しさとは何かを探求すること。



僕達は
絶対的に正しい、唯一無二の真実を探そうとしたとき
対立へと導かれるようです。


主観が客観を捉えうるという前提からは
出口のない対立が生まれます。


僕達は
それぞれが、それぞれの認知スタイルにより
いろいろな「わたしにとっての事実」を捉えています。

その延長線上に
「わたしたちにとっての事実」を生み出すことができると
信じるとき、対立ではなく、触発、創造が生み出されるようです。


ここにあるのは
主観は客観をとらえ得ない。
事実は、生み出される。

という前提の転換です。



転換するためには
「わたしにとっての事実」への確信を
保留することが必要でしょう。



事実は「ある」のか、「生み出す」のか。


ここに
対立と創造の別れ道があるようです。



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