発創アリ。

2017 03
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裁判員に聴く。

来年5月の裁判員制度スタートに向けて
今日から候補者通知が発送されているようです。


候補者に当選する運を
年末宝くじに使いたいのは山々ですが
民主主義のこの新しい展開に
是非とも参加してみたい好奇心も膨らんでいます。


この制度の趣旨を

法律によって人を裁く判断の中に
専門家だけでなく、市民を交えて
より市民感覚に近い判断をする

と理解しています。


この制度の是非には、かなりの議論があって
法律のプロの方々が大反対をされていたりもするようです。


僕は
司法制度だけではなく
民主主義のあり方も視野にいれた
大掛かりな実験(試行錯誤の始まり)だと捉えています。


難解な文言で煙に巻かれるような裁判が
市民の目線まで開かれてくるのは
大きな進歩につながるでしょう。

閉ざされた場での専門家の発想は
どうしても偏りや硬直化を避けられませんし

専門家に任せきりの裁判では
僕達、市民に倫理観が深まる機会が
失われている気がするからです。

人によって作られた法律によって人を裁くということや
利害の当時者が他人に判断を委ねるということが

結局のところ、何を意味するのか
法治国家に暮らしながら、ほとんど考えることがないからです。



あだ討ちへのシンパシーは
数多くの時代劇に描かれているように
誰しも持つものだと思いますが

それを裁判はどのように乗り越えうるのか
わからないどころか、考えることすらないのが現状だからです。


以上の点において
この制度の意義をとても大きく感じます。


一方で、この制度のイチバンの難所は

聴けるか?

ということでしょう。


専門家が素人の意見を
専門知識に邪魔されずに聴けるのか?
「法律のことを知らない素人にわかるのか?」
というフィルターを持たずに聴けるのか?

最終的には自分の専門知識を武器に
影響力を無意識のウチにも行使してしまわないか?


素人が専門家の意見を
「専門家の言うことにはかなわない」とか
「彼らは生活のことをわかっていない」
というフィルターを持たずに聴けるのか?

最終的には自分の生活感覚を主張するだけで
対話にならない恐れはないのか?

立場や視点の違いを活かしあった対話は可能なのか?


ということが
この制度の生命線でしょう。


僕達の生活世界に目を向けると、残念なことに

「知る者」と「知らざる者」
の間の壁が越えられないせいで

お互いの違いを認め合えない
排他的な会話しかできないせいで

組織や社会の生産性が
著しく疎外されていることは

政治でも企業経営でも
否定しえない現実です。


ですから、この制度が
システム的な解決によって
または、参加する僕達の心的な成長によって
この超え難い壁を越えていけるかどうかは
司法制度の進化にとどまらず

社会の対話のあり方
つまりは民主主義の進化に
関わっていくと思います。


この大掛かりな民主主義の実験が
絶えざる試行錯誤の始まりであって
制度形骸化への道でないことを祈りつつ

ちょっとだけ
候補者への当選を祈っています。


ファシリテーター
冨永良史


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