発創アリ。

2017 07
06 ← 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 → 08
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 スポンサー広告 コメント(-)
橋下知事が提起する。



「橋下知事、体罰容認?」


こんな報道がなされています。
昨日、大阪府で行なわれた
府民らと知事が教育問題を話し合う討論会
においての発言をめぐる報道です。


現在の社会的コンセンサスでは
「体罰はしてはいけないこと」です。

よって、討論会で
「口で言って聞かなければ
 手を出さなきゃしょうがない」
と発言すれば

「禁じられているはずの体罰を知事が容認するのか」

という切り口の報道になるわけです。
しかし、この発言とその報道には
「僕達が、いかに判断をサボっているか」
がくっきりと現われているように思えます。


橋下知事が、討論会終了後に
「体罰容認では?」との記者からの質問に
「体罰の定義を出してもらわないと」と答えているように


「体罰はダメだ」とか「体罰容認」とか言っても
実は、何にも言ってないのと、同じだということに
僕達は、気づかなくなっています。


体罰とは、いったい
具体的にどういう行為なのか?


を明らかにし、かつ社会的に共有しない限りは
「体罰は是か非か」などという議論は成り立ちません。


しかしながら、僕達は
ある特徴的な暴力行為と
そこから連想される抽象的な概念を
「体罰」と「ラベリング」し
その周辺の概念すべてを「体罰」で片付けてしまいます。



そうすると何が起きるかと言うと


「体罰」という正体不明のラベルを貼られた行為すべては
その目的や意図に関わらず、「絶対的な禁止行為」になってしまいます。


本来、手段は、まず第一にその目的によって評価されるものです。
したがって、体罰(と推測される行為)も含め、あらゆる教育手段は
その背後にある目的によって、その正当性を評価されるべきでしょう。


だからこそ、橋下知事は
「どこまで教育と認めるかは
 家庭、地域と合意形成することが第一」
と発言しているわけです。



こういう経緯のいっさいが軽視され
「容認」か「禁止」か、という論点が展開されるのは
マスコミだけではなく、僕達の思考の「悪癖」みたいなものだと思います。


ひとつひとつの行為を評価・判断している手間を省略して
類似するあらゆる行為に「ラベル」を貼って
それらを一括して評価・判断するということを
マスコミの影響もあって、僕達は簡単に自分に許してしまいます。


本来、あらゆる行為は個別的であり
そんな簡単にラベリングも評価もできないはずです。

だからといって
すべてを個別的に判断しているわけにはいかないから
ラベリングという思考スタイルを使うわけですが


少なくとも、僕達が忘れてはならないのは
「判断をさぼるのが、僕達の習性である」ということ、すなわち
「僕達は、考えているつもりで、実は、機械的に処理しているだけ」
ということが、極めて日常的であるということです。


だからこそ
橋下知事のような、異論をぶつけられると
とってもチクチクと刺激を受けて、否定したくなるわけです。


彼の発言には、否定的なコンセンサスが容易に生まれるのは
そのせいだろうと思います。


彼は、「ただ、提起してるだけ」という点も見逃してはなりません。
主張と提起の区別ができずに、すぐに自分を否定されたと思ってしまうのも
僕達の弱点のようです。


ファシリテーター
冨永良史
スポンサーサイト
 出来事・日記 コメント(0)
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURL
→http://eupsychia.blog75.fc2.com/tb.php/602-441438ef
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。