発創アリ。

2017 11
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失言を聴く耳。




信念が正しくとも
それを伝え、叶えることを急ぎ
誤った方法をとってしまい
結局、誰にも何も伝わらず
信念とは逆の結果が生じてしまうことがあります。



中山成彬前国土交通大臣が
自らの失言の責任をとって
大臣の職を辞しました。



後の報道で
彼の失言の背後にあった意図の一端を知りました。


失言と評された彼の指摘のすべてが誤りであったと
言い切れる人はいるでしょうか?


彼の指摘の根底には


支持基盤の成り立ちにフタをして
根拠のない公約を掲げてはいけない。


何をどのように教育するのかは
一部の急進的な考えによって影響を受けてはならない。


という考えがあり
だからこそ、民主党と日教組のありかたに疑問を呈したわけですが
その思いがほとばしるあまり
極端で過激な表現になってしまっているようです。


これは僕の解釈であって
それが本当かどうかはわかりません。

ただ、問題にしたいのは


「国務大臣の職にありながら不適切な発言」とか
「失言=辞任」とか


そういう「べき」論が
彼の失言の直後から、あふれかえったことです。


なぜ、彼の発言の真意を彼の言葉で問おうということが
真っ先に行なわれなかったのか。
なぜ、真っ先に責任問題、辞任要求になるのか。
辞任が僕たち国民にどんな利益を与えるのか?

その展開が、僕には受け入れられませんでした。




彼の「思い」と「伝え方、表現」を
分けて考えられなかったのだろうか?


それが残念です。

国務大臣たるもの
常に完璧な表現を求められるのでしょうか?

完璧な表現ができるようになるまで
無言を貫かねばならないのでしょうか?
当たり障りのないことだけを言うべきなのでしょうか?


それがどんな考えであっても
信念をもったものであるなら
自らの存在をかけて、みんなに伝える。

表現が足らなければ
真意が伝わるまで言葉を換えて繰り返す。

聴き手は、表現にばかり反応せずに
伝え手の真意を受けとめるように
発言の背景を深く確認する。



これは
社会全体で何かを創り上げていこうとする時の
コミュニケーションの原則だろうと思います。
つまり、今、まさに求められている原則だろうと思います。


上っ面のキレイな発言、無難な発言だけを歓迎するなら
社会の問題は何ひとつ解決しないどころか
表にでることすらありません。


言葉は乱暴でも
正しい指摘があるのかもしれない。
自分には見えない、自分には言えないけれど
彼なら見える、彼なら言える社会の病根があるのかもしれない。


そういう思いで、彼の真意を問うのが
まず先だったのではないかと思うんです。


実際
彼の指摘の根底にある考えは
特に偏ったものでもなく
常に問われるべき問題です。

党は嘘を言ってはいけない。
教育がゆがめられてはいけない。

それを伝えるときの、事実認識や表現に
偏りや先入観が混じったのは確かでしょうけれど。
指摘の方向性は間違ったものではないはずです。


そこから、より良い政党のありかた
より良い教育のありかたに向けて
議論が膨らんでいくことを望みたいのに。。。


真意は後回しで
表現の良し悪しから責任問題、辞任。。。


問われる順序が違うと思います。



これからの社会は
答えが見えず、社会全体で話し合いながら
答えを探していく、「話し合い社会」です。


儀式的、儀礼的な発言ばかりを求め
核心をとらえているかもしれない乱暴な発言を排除するなら
いつまでたっても答えが見えません。


僕達に必要なのは
儀式としての話し合いに必要なマナーをチェックすることではなく
大臣であろうと小学生であろうと
彼が、なぜ、何を言いたいのか?
に心から耳を傾けることではないでしょうか?


ファシリテーター
冨永良史
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