発創アリ。

2017 08
07 ← 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 → 09
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 スポンサー広告 コメント(-)
認められない世の中。




ものすごく単純化すると


多様化とか個性化ということは
「認められたい」欲求が満たされない。
ゆえに、認めさせるために、コミュニケーションがゆがむ。


というリスクと隣り合わせです。

ある人のある特性を「認める(評価する)」ということは
その根っこに、必ず、自分との「同質性」を認める
ということがあるからです。



自分とどこかでつながっている


という感覚なしに
他人の個性を認めることは困難です。



世の中が
大きな物語、価値観を共有していた時代には


誰もが、お互いに
自分とのつながりを体感していました。
同じモノサシで、お互いを認めることが出来ました。


世の中が
相対化し、多様化してくると
お互いが違うモノサシを持ってるわけですから
認め合うのが難しくなります。


そうすると
「認められたい」欲求が溢れ出て
その解決策として

価値観をおしつけたり
他者を否定したり
極端になれば、存在を消去したりします。



今、社会で起きている
様々な事件や、困難課題の背景に
こんなコミュニケーションの歪みがあることは
多分、間違いないだろうと思います。


僕達は
膨大なお金と手間をかけて
自分の欲求を満たすこともできますが

一円のお金もかけずに
ほんの一瞬で

たった一言、ささやかな笑顔と共に
「認められた」という充足感で幸せになることもできます。


違いを超えて
違いを価値として認めあう


ということは、言い古された言葉かもしれないけれど
断片化をへて再統合の時代に入りつつある現在において
とても重要な意味があるようです。


ファシリテーター
冨永良史
スポンサーサイト
 出来事・日記 コメント(0)
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURL
→http://eupsychia.blog75.fc2.com/tb.php/545-dfe97ab3
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。