発創アリ。

2009 12
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年の瀬に想いを


今年の手帳の1月のページを眺めると
遠い過去の出来事のように思えます。


新しい、思いがけないことに満ちた一年でした。


何か、新しいことが起きると
それは、以前から脳裏を去来していたことだった
という既視感に包まれる。


そんな体験が多くありました。
僕の脳が、自分の行動だけでなく
これからやってくる出来事についても
先取りしているような感覚があります。


年頭に手帳に記した
今年、近年中に自分が実現するであろう「予言」
を読み返すと、いつの間にか実現していたり
カタチを変えて実現していたり
確かに実現に近づいている手応えを感じられたりします。


サボり屋で、忘れっぽい僕のことですから
ずっと実現を願っていたわけでもないのですが
不思議なものです。


思いが行動を生み
行動が他者への働きかけを通じて出来事を紡ぐ。
であるなら、思ったことと、起きることに相関があるのは
当たり前と言えなくもないのかもしれません。


思いの強さはリキミを生むこともあります。
他の景色を見えなくしてしまうかもしれません。
うっすら覚えている、でも、ずっと願っている。
その程度のチカラの抜け具合がいいのでしょうか。


先行き不安なこと、恐いこともありますが
そこに目と心を奪われずに、すんなりと
今、ここに、立っていたいと願います。


深々と降る雪の、音にならない音を感じながら
今、この瞬間、静かな気持ちで
暮れ行く年に思いを馳せていられることは
何より幸せなことです。


今年も、たくさんの皆さんに出会い、触発され
思いがけない時を紡ぐことができました。

すべての出会いに心から感謝します。
ありがとうございました。

残り少ない今年、この時、この瞬間のすべてが
これまでに感謝し、これからに期待する
最良の時になりますように。

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犬の教えは




我が家の愛犬は
あまりオツムが優れている方ではなく
物覚えは悪いし、言うこと聴かないし、きゃんきゃん吠えるし

でも、なんとも言えない愛嬌と素直さがあります。
とても素朴な性格です。


散歩にいくと、ちょっとリードを緩めて
遠くにいけるようにしてやることがあります。
こちらに時間がないときは「さっさと戻ってこい!」と
イライラするのですが、そういう時に限って、知らんぷりして
あちこちウロウロ、まったく戻る気配なし。


どうでもいいから好きにしておいで、と放置してる時には
そのうち、愛犬の方から、こっちの顔色を見るようになり
えさをかざして「戻っておいで」と言うと
一目散に駈けてきます。


始めからこちらの言いなりにしようとすると、知らんぷり。
好き勝手させた後なら、一目散。


こちらの願いを通そうとしたら
相手の欲求を満たしてあげることが先。


なんてことを、彼は教えようとしてるんでしょうか。。。


。。。そんなわけないですね。
何にも考えてないから。彼は。。。
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余命を思うと




16年前の今日、国民的な人気を博したアナウンサー/司会者が
48才の若さで、ガンでなくなったことを
先ほど、テレビ番組で知りました。


黒沢明監督の「生きる」に自分を重ね
「命みじかし、恋せよ乙女」と歌っていたとか。


自分が余命について考えるには
「まだまだ若い」と思っていて
でも、心のどこかでは、「いつ何があるかわからない」
とも思っています。


「まだまだ若い」の根拠は
90才になっても元気な祖母を日頃見ているから
というのが一番大きいです。


祖母の年まで、あと52年もあります。
これまで生きてきた年数よりも、遥かに長い時間が待っている。
であるなら、余命なんて、と思えます。


一方で、先ほどのアナウンサーの件に触れると
「いつ何があるかわからない」という思いが頭をもたげてきます。
20代でなくなる人だって、少ないけれど、確かにいます。


病だけが死因ではないし。



「まだまだ若いから」と「いつ何があるかわからないから」の間には
生きることと時間の流れに対する考え方に
大きな隔たりがあるように思えます。


「若いから」という考えは
生きるとは「時間の積み重ねである」という前提に支えられ

「何があるかわからない」という考えは
生きるとは「今、この瞬間に命を燃やすこと」が前提です。


若いが故に
半永久的に流れていくような時間感覚の中では
「今この一瞬」を掛け替えのないものと捉えるのは
困難を伴います。


無限に思える時間があるからこそ
夢を描ける、けれど

冷徹なまでに有限だからこそ
今このときを燃やそうという気持ちが生まれる。


両親や祖母や、なくなった祖父を想い
これから時を過ごす妻や娘を想う時

無限と有限の間に
橋渡しがなされるように感じます。


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どっちへ踏み出す




大きなお仕事のご依頼をいただきまして
さてどうしたものかと思案しています。


「大きい」の意味は
人数や作業ボリュームではなく、お金でもなく
魅力と可能性と重さ、です。


いつものごとく、突然、光が射してきて
その光の照らす地表が、少し僕には広すぎて
どっちに一歩を踏み出そうか、迷います。


大志を抱きつつ、こじんまりと踏み出し
独り思いを温めつつ、外に開き、関わり
どっちに転ぶかわからない偶然の中を楽しんで歩んでいこう
と思います。


詳細は、またいずれ。


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誠実になるのは



誠実とは、辞書によれば
「私利私欲を交えず真心を持って相手に接すること」
とあります。


さらに、真心とは
「真実の心。噓や虚飾のない心」
です。



「真実の心の中に、私利私欲を交えない」などという心境が
果たして可能なのか、ということを、ふと考えました。


僕の真実の心の中は
私利私欲で満ちています。

自我とは自らに対して「ありたい姿」を望むことで
成り立っているはずです。
それ抜きに、自我は、心は存在しえないのではないでしょうか。


であれば
自分の欲求を正邪を問わず正面から受けとめること。
それこそが「誠実になる」ことの始まりではないか。
相手に誠実になるのは、それからの話ではないか。


そう思いました。


自分の私利私欲と向き合わない真心とは
それはつまり、偽善だろうと思うのです。



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渦中にて



ついさっき、NHKで金融資本主義についての番組を
ほろ酔い加減で観ていたら、元ウォール街のエリートだった人が



問題は、ふりかえってみれば、いつも単純に見える。
ただ、渦中にいるときに、それを理解するのは難しいね。



といった意味の発言をしていました。


その通り、と深くうなずきました。
渦中にいるときに、今このときの危うさが理解できれば
人は、同じ過ちを何度も繰り返さない。


なんで、渦中では見失うのか。
この問題の答えは、単純に思えますが
きっと、まだちゃんとした答えが出ていないのだと思います。


渦中にいる自分とどう向き合うか。

渦中にいる時には、渦中だということがわかりませんから

この問いは、すなわち


今、このときの自分とどう向き合うか


と翻訳されねばならないでしょう。


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信じてこそ。




夢を描き、科学的、論理的に分析して
その実現に向けた行動計画を立てることは
どれほどの意味を持つのか、と考えます。



その分析の緻密さゆえに
計画への過信、または義務感が生まれ
計画厳守こそが、夢の実現への道だと思い込んでしまう。
もっと不幸なら、計画厳守が夢にすり替わってしまう。


信じるべきは
分析や計画の緻密さではなく


その夢を「どうしても実現したい」と願う
自分自身の心の熱気であり

その夢の「実現してしまっている状況」を描ける
自分自身の想像力だと思います。


分析や計画を軽視するつもりはなく
それらばかりに目を奪われ
本来、夢の実現にもっともチカラを発揮するはずの
自らの精神、思考のありようについて考える時間、場面が
あまりに少ないのではないかと
社会と、そしてもちろん自分自身を省察しています。


泥遊びに没頭している子どもの脳裏には
「できるだろうか?」「締め切りはいつだろうか?」
などという迷い、不安はなく

ただただ、「・・・のように作りたい」という熱情だけが
存在しているのではないでしょうか。

もしかしたら、それすらもなく
「ずっと、この泥に触れていたい」という無我の状態
なのかもしれません。


不安が増す社会において
どのように問題を解決すべきなのか
という分析、論理、計画ばかりに目が向かいがちです。


泥遊びの子どものような目線を
忘れたくありません。
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一番大切なC


Plan-Do-Check-Act。
略してPDCA。


目標を達成するための思考法、フレームワークとして
広く知られています。


先日

自分の仕事の振り返り(チェック)をどのようにしているか
そもそもできているか

という問いに触れる機会がありました。
話題にのぼったのは

目標と指標の整合性
指標に対する納得度
指標のための情報収集の方法
指標の見直しの機会

などでした。


いろんな方の意見に耳を傾けながら
ひとつの大きな確信に改めて至りました。


チェックの中で、一番大切なのは


自分が大目標(理想)を忘れていないか?
その目標が達成できた時の状況をありありとイメージできるか?


である、ということです。


チェック=指標の確認は目標達成のための手段であり
指標が達成されて、目標を忘れれば、なんの意味もありません。


達成すべきことに、最も脳を使うことが必要であり
そのための手段=指標達成に右往左往しては本末転倒でしょう。

そして、私たちは
卑近な目標=指標に目を奪われやすく
結果として、目標達成をリアルに描くことを忘れます。
そういう思考上の弱点を誰もが持っています。


であれば、こまごまとしたチェックをする前に
自分の大目標を定期的に、ありありと思い描くこと
目指すことを忘れていないぞ、と確認すること

これこそが、究極のチェックであり
それをせずに、指標のチェックをしたところで
なんの意味があるでしょう。


究極の理想で脳を一杯にすること。
そのためだけに脳を使うこと。

単純なことですが
簡単ではありません。


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残り何分か?



ビデオの早送りをめぐっては
以前も記事にしました。


面白くないところ、平坦な描写のところを早送りして
盛り上がる場面だけを飛ばし観ることで
インプット効率は上がります。


でも、ジワジワ盛り上がってきて、時に一息いれる場面があり
ぐ~っとピークに盛り上がる、というような
全体文脈の中に身を投じる経験は失われます。


最近は、DVDになって
全体がいくつかのキャプチャーにわかれていて
いまがどの部分なのかがリアルタイムにわかります。


そうすると、余計に
意識が全体と今現在の場面の間を行き来して
没入への道が遮断されている気がします。


残り何分か?あといくつチャプターがあるのか?


を気にして、そこから次の展開を読む。
みたいな見方をしてしまう。


現実は、無限に続く(と思える)時間の中で
次のキャプチャ展開もわからないままに
自らが主人公となって振る舞います。


。。。と、ここまで書いてきて
もともとは、早送り、先読みのスタンスにブレーキを
かける記事にするつもりでしたが


なんだか、そういうのもアリのような気がしてきました。


必ず死ぬのだから。
死という終幕をイメージして
先のキャプチャーをデザインし
日々それをイメージし、修正しながら生きる。


自分の日常を
終幕に向けた一巻のDVDに編集するつもりで
生きてみようかと思いました。

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テキストを捨てて町へ出よう。




研修を担当させていただく時に
いつも、ふっと弱気の虫に襲われることがあります。


作り込みたい、という欲求です。



この研修で学ぶべきこと、身につけるべきことを
テキストとして一覧化し、後で役に立つようにしよう。。。


という欲求に襲われます。
そうした方が、研修の成果は安定しますし
受講してくださるみなさんの満足度も上がることが多いからです。


でも、しかし、それは違う。。。と自分に言い聞かせて
踏みとどまり、いかに皆さんと対話を紡ぐか
その「問いかけ方」に腐心するモードに戻ります。


私たちは、いや、少なくとも偏差値競争まっただ中だった僕は
テキストの学び、を非常に好みます。

学ぶべきことが明示され、わかりやすく教授され
脳内に刷り込んで、正確にアウトプットする。

アウトプットの評価は
テキストの再現性における正確さと明快さ。


このような学びのプロセスそのものに
少なからず快感を覚えるのです。


でも、しかし、それは、現実の中で万能ではない。
いや、むしろ、役に立たないことの方が多いかもしれない。


現実は「即興」で成り立っていますから。
準備を超えた、降ってきた現実に、いかに「ありあわせ」で対応するか?

その能力こそが、学ぶべきことで
それはテキストに一覧化できない。


テキストからの学び
テキストの再現という成果の出し方を卒業して

現実体験からの学び
現実を変革するという成果の出し方へ入門しなければならない。


テキストを捨てて現実の中に我が身を放擲しよう。

いざ、町へ。


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枠の外に立つ覚悟




中野民夫さんのワークショップに参加した時


ワークショップは人の出会いやつながりを促す。
一方で、丁寧にお膳立てされた環境の中でしか
つながれなくなる、弱い人を作るリスクがある。


という趣旨の提起がなされました。(細かい表現は記憶していません)


もともと、ワークショップの人工性に違和感を持ちながら
ファシリテーションしていたこともあり
以来、ずっと


どうしたら人を弱くしないワークショップができるのか
いや、そもそも、もしかしたら
ワークショップというお膳立ては害悪なのか
だとしたら、人のつながりを促すには、どうすればいいのか


といったことを考え続けています。



今のところ、やはり
ワークショップという人工的な出会い空間は意義がある
と考えています。


日常から切り離された空間と時間で
リラックスでき、深く感じ、深く対話し
問いを投げかけあう。


それは、確かに人を学びと成長へと促すからです。
ただ、少なくともあとひとつ、問われなければならない問いがあります。


ワークショップを終わる前に
それから、終わった後もずっと


あの非日常の中で、何が自分を開放し触発したのか?
それは、日常では、どう実現できるのか?


という問いです。


リラックスして人と向き合う。
問いを共有する。
思いを受けとめあう。
違いの先を想像/創造する。


このようなことを、日常で行なうという覚悟なくしては
ワークショップは、ただの過保護に堕してしまいます。


ワークショップという過保護空間は
あくまでも保育器、学校という枠の中であり

その外に自律して立つことにこそ
その枠の意味がある、ということを忘れてはならないはずです。


枠の外に立つ覚悟を決めるために
枠の中の温もりを味わい尽くす。


そんなワークショップを生み出していきたい
と覚悟を決めています。


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ルールの周辺。



ルールがルールのために機能してはいけないことぐらい
誰でもわかります。

とは、いうものの
実際には、ルールの是非を巡った議論ばかりで
ルールの意義/意図に目を向けられることが少ないようです。


ルールは目的とセットであり
ルールはプレイヤーとセットであり
ルールはゲームに勝つためにあります。


いったい、何のためにそのルールがあるのか。
誰と誰が関与するものなのか。
プレイヤーが参加しているのは、どんなゲームなのか。
敵は?勝利の定義は?


そのような問いが、ルールの周辺にはリンクされており
それ抜きにルールのみを議論することは不毛です。


先の天皇面会をめぐるルール議論は
目的とプレイヤーとゲームの定義を忘れた状態で
行なわれているようにも思いました。


同じチームのピッチャーとキャッチャーが
自分の都合を押し付けあっているようなものです。
チームメイトなのに、まるで敵であるかのように。


誰と誰が、何を目指してチームを組むのか。
そのチームには、どんなルールが必要なのか。


そのような対話こそ必要でしょう。

「あうん」では通じられない他者だからこそ
チームになるために、ルールが生まれ
対話を通じて、常に更新されることを願います。
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あうんの外で



ディーラーさんで冬タイヤに換えてもらいました。


ちょっとした手違いがあって
日曜に行ったのに、その時はできず
今日、やっと終了。
明日から雪のようで、どうやら間に合って、ホッ。



今日は、日曜の手違いの時に担当してくれた人がいなくて
違う人が担当でした。

この前の人なら、「あうん」の呼吸で
何の説明もいらずに、すぐ作業に入ってもらえますが

違う人だと、「この人は、どのくらい知っているんだろう?」
ということを考えながら、イチから説明しようか、そもそもどうやって説明しようか
などという思いが脳内を巡ります。

瞬時に説明するには、込み入った手違いだったので。


幸いにも、たどたどしい僕の説明にも関わらず
すぐに察してくれて、スムーズに交換が終わりました。


「あうん」だったら使わなかった脳味噌を使い
日曜から今日までに、タイヤ交換をめぐって何が起きていたのか
を、整理することになりました。はからずも。


「あうん」が通用しないところで
コミュニケーションを取るということは
「あうん」が通用する場合と比べて
脳の使い方も、使う密度も、格段に違うんだと感じました。


このような時にこそ
自分を相対化できるし、新しい気づきもあります。


もし日常が「あうん」であふれていたら
気持ちいいかもしれないけれど
学びと成長の機会は、とても少なくなるでしょう。


「あうん」の外に出て行くことを
自分に課していこうと思った出来事でした。



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メンツがルールを。



600人の大軍団を率いて訪中した
強面の政治家が


中国の要人と天皇とが会うことに
手続き上、健康上の問題があると反対した
宮内庁の上級官僚に


政治家に逆らうならやめる覚悟をしてからだ。


という意味の発言をなさっています。



宮内庁は
従来から、相手国の大小に関わらず守ってきたルールを
おそらく実直に守ろうとし
天皇が政治目的に利用されることを防ごうとし


大物政治家は
外交上の意義を優先して、多少のことには目を瞑れと言い
それは、多分にメンツを守ることも含まれ
しかし、外交とはメンツであることも、おそらく確かで。。



政治主導であろうが
官僚主導であろうが


両者の間に、つまり
この国をどこへ持っていきたいのか
両者にとって、一番大切なことは何か
といった対話、合意がなされないことには


ただのメンツの張り合いになります。


メンツがルールを守らせ
メンツがルールを変えよと恫喝する。


ルールとは
共通の目的のもとに
お互いの活動を調整する手間を省くためにあるはずです。


メンツを抑え込むようなルールを
築き上げるような関係になってもらいたいと願います。






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参入障壁をめぐる。



規制緩和によって
今までにはあり得なかった競争状態を招き
みんなそろって息も絶え絶え。


よく見聞きする話です。


ビジネスはプレイヤーが少ない方が
戦いやすく、勝ちやすいですから
いかに新規参入のしにくいフィールドを選ぶか
ということが、大切であることは、誰もが知っています。


いわゆる参入障壁です。
障壁が高ければ、見込み有りのフィールド。


この障壁の基礎を法律に求めてしまうと
規制緩和に対して、対応できずに
競争の渦に巻き込まれることになります。


法律によって築かれた参入障壁は
幻想にすぎない、一時的なものにすぎない、のだと思います。

幻想が晴れるまでに、障壁が瓦解するその瞬間までに
十分に、自分の心身を、自分を基礎とする障壁で被う必要がある。

不況なときは資格を取った方が。。。と言われますが
これも、同様に、幻想、一時的な障壁にすぎないでしょう。

法律に守られた資格も、そうでない資格も
なんだか、プロっぽい雰囲気を醸し出すのには、ある程度有効ですし
国家資格なら、仕事を守ることもできます。

でも、その「守られ感」が自分をダメにしていく
ということも多々あります。
簡単に言うと、「安住」してしまうということです。


法律でも、資格でもない、独自の障壁を自分を根拠に築く。
あらゆるビジネスで必要なことだろうと考えます。
他者依存の障壁は、瓦解する運命にあるでしょうから。


一方で、「自分にしかできない」という独自性を障壁にした場合の
リスクにも十分な注意を払わなければなりません。


リナックスやグーグルをはじめとして
自分の独自性を「開放」してしまって誰もが使える状態にし
自分のフィールドへの「参加者」を爆発させることを
自分の強みに変えていく、という戦略があるからです。


ここで言う「参加者」とは新規参入する競合ではなく
「支持者」「協力者」という意味になります。

フィールドへの参加者が爆発していく過程で
相互に補完、触発しながら、フィールドそのものが大きくなっていく。


自分の独自性を孤高のものと評価してしまうと
この開放戦略の前に、なす術がありません。


参入障壁とは、何も受け付けない鉄壁ではなく
自らも外に働きかけ、外からの働きかけも選択的に通す
透過性の高い鎧、という、アンビバレントな解釈を持つべきなのでしょう。


自分とは自分によって成り立つ者ではなく
世界とのつながりの中でこそ成り立つ者である
という単純な命題に落ちつくわけですが。。。

競争すると、そういうことを
いとも簡単に忘れます。

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尊敬と夢と。



先日、ある講義で


自由/健康/尊敬/財力/家族/夢/才能


という7つのキーワードを示して


「あなたが生きていく上で
 大切なものから順に並べ替えてください」


という問いかけをしました。
学生たちに、相互理解と対立解消のプロセスを
感じてもらおうと意図した課題です。


その講義が終わって、片付けをしていると
ひとりの学生が近づいてきて

「先生は、この中で何が一番ですか?」


と問われました。


問いを出しておきながら
実は自分では考えてなかった(なんていい加減。。)ので
その場で、「ぎゅっ」と集中して考えたら

「ふっ」と納得できる答えが浮かびました。


尊敬と夢。


この二つが1位と2位を争うだろうな、と。


健康も自由も家族も大切だし
できれば、財力も才能も欲しい。


けれども、その源は、尊敬と夢。


夢見ることだけは忘れたくない。
それこそが、生きるエネルギーを生んでくれるから。


夢だけを見つめて、人を、自分を見失うことのないように
人を、自分を、肯定的に受けとめ、尊敬することを忘れたくない。
それこそが、成長のエネルギーを生んでくれるから。


生きて、成長できれば
多少の不自由は、不健康は、乗り越えられる気がします。


生きて、成長できれば
様々な人とつながれるから
自分の才能にだけ、頼る必要もないでしょう。
家族とも幸せを築けるはず。


ひょっとしたら
財力のオマケがつくのかも。


そんなことが、一瞬の間に
頭に巡りました。


問いかけてくれた学生さん、ありがとう。


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主旋律がアドリブを。




場のライブ感を大事にしたいので
講演でも研修でも原稿は作らない

ということは、何度か書いてきました。


参加者の反応を見ながら
一緒に場を創っていくことを
何より大切に、そして楽しみにしています。


お互いのアドリブで構成された場を創りたい
といつも願っています。


でも、コケる時も、あります。

アドリブが噛み合なかったり
そもそもアドリブが出なかったり。


参加者との「ノリ」が合わない状態です。


最初から最後まで合わない、という経験は
今のところ、ありません。が。。

一番、ノリのズレが生じるのが
出だしの部分です。最初の10分。


あらら。。今日の皆さんは、どぉ~も、乗ってくれないなぁ


と冷や汗をかくことも、多々あります。
なんでなのか、とふりかえって気づいたのが


主旋律とアドリブの関係


です。
ノリが引き出せないときは
僕が主旋律をいい加減に終わらせてしまった時です。
で、みなさんのアドリブがズレたり、出なかったり。


主旋律とは
講師の「自己開示」と
講座の「モード(狙う雰囲気、テーマ、進め方)」
のことです。

自分のことを十分に話さない講師には
誰も心を開かないですから、アドリブなんて出ません。

講座が、どんなモードで進むのか、を講師が心身で表現しないと
誰も安心して乗ってきません。乗ってもズレます。


参加者主体の講座を目指す、といっても
やはり、起点と基盤は、講師の存在(人としての在り方)にある
ということを、考えさせられます。



 出来事・日記 コメント(2)
光の射す方へ。




志を根拠に仕事をしていると言っても
やはりビジネスですから

既存サービスの充実だけでなく
新サービスの開発も重要です。


なのに。。。それが苦手というか
そういうことに、なかなか脳が働いてくれない。


にもかかわらず。。。仕事の幅は広がってるわけで。
なんとも幸せなことです。ありがたい。


どうして、そんな幸せなことになるか
今のサービスメニューひとつひとつについて
どうしてそれを始めたのか、を振り返ると


ほとんど、すべて
誰かからの「こういうの、やって欲しいんだけど、どう?」
という問いかけが起点になっていることに思い当たります。


ここでいう「こういうの」は
僕にとって、決して「はっ」とするほどの新境地ではなく
その前から、「なんとなぁ~く」「そういうのも、ありかなぁ」と
思いながらも、それ以上考えることを脳がサボっていたことです。


で、そういう「脳の構え」ができているところに
「こういうの、できない?」という問いかけをいただくと
とたんに脳が働きだして、新しいサービスとしてカタチになる。
というパターンを繰り返しています。

僕のサービス開発は
極めて「受動的」なんです。
まったく「攻めて」ない。


心身の構えがあるところに
新しい光が射してくると
心身が、反射的に反応する、というイメージです。


こういうのも、アリかな、と
自分で自分の状況を面白がっています。


今も、また、新しい光が射しています。


社会問題/ビジョンを扱う公開討論会のファシリテーター。
そして、講師養成のための講座の講師。


いずれも、そのうちできるかな、と思ってた程度でしたが
最近になって、外から光が射してきて
もうすぐ実現しそうです。


光が射してきた時に反応できる
構えと、しなやかさを、心がけたいと思っています。



 出来事・日記 コメント(0)
仕事の意味を。



近々、福井大学の工学部で
「フロントランナー」という講義を務めさせていただきます。


大学からいただいた説明によれば

「企業の最先端で活躍されている経営者や研究者の方々に
 仕事の内容やMOTの紹介をしていただく」

「仕事に対する考え方や将来の夢を暑く語っていただき
 学生が社会の第一線の方と触れあうことで
 将来と社会に対する期待感を内面から高めさせる」


ことが目的になっています。


90分×2で、3時間。
100人くらいの学生のみなさんとの
対話の時間をいただいたことになります。


大学生相手の講義/演習は好きですから
特に深くも考えず「はい、やらせていただきます」
と即答しましたが

今になって
今、この時に、このお仕事が「やってきた」のは
偶然とは思えない、と思うようになりました。


というのも
僕は、今、これまでの仕事を総括し
これからの仕事の方向性や志を生み出そうと
思っていたからです。

僕が目指すこと。

想いを引き出す、紡ぐ
世界を動かすチカラに変える。


これは、いったい、これからどんな意味を持つのか。
どんな世界を、どこへ動かすチカラを生み出すのか。

そんなことを、立ち止まってじっくり考え
学生のみなさんに語り、問いかけ
一緒に考えてみたい、と思っています。


仕事の内容ではなく
仕事の意味を考える時間を
しばらく続けます。

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内へ閉ざす時



対話によって未来を拓く
というスタンスが

ボチボチと
様々な場面、組織で採用されるようになり


ともかく人と出会う、つながる、触発しあうことの価値が
上昇しています。

ネット上では
ブログ、ツイッターをはじめとした場が生まれ
外の世界と簡単に多用につながることができます。


人と、外部とつながることで
触発を受け、自分を深化させることができるのは
確かではあります。


一方で、自己の不安定化を招くことも
忘れてはならないと思います。


つながっていなければ不安になる
人に承認されないと、自己が保てない
人と比べないと、自己が見つからない


そのような現象は
つながることによって目指していたことの対極です。
にもかかわらず、つながるが故に起きる現象でもあります。


午後のひとときを
近くの公園で、缶コーヒーを飲みながら
ゆったりと過ごしてきました。


内面に浮かんでは消える、想念の断片を感じながら
内へ閉ざす時間の豊かさを思いました。


外からの刺激が成長をもたらすわけではなく
その消化と昇華こそが成長をもたらすのであり

そのような、閉ざした時間を持つこと
閉ざすことの不安に向き合うこと

それができてこそ、外と向き合える
閉ざす時間の密度の高さが、引力を生み
外からの刺激が引き寄せられてくる
閉ざす時間の温度が、外からの刺激に化学反応をもたらす。


そんなことを考えています。


外にも
内にも
出会いはあります。


内側に閉ざし
内側とつながる時間を。

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近き者、遠き者。



ある人とメールのやりとりの中で
出てきた言葉が、ずっと余韻を残しています。


近き者よろこべば、遠き者来たらん


出典は論語で、意味は


近い領民からよろこばれ、 慕われるように政治を行えば
その評判を聞いて遠くの地方からも移住してくる


いずれも、言葉を聞いた時は
知りませんでした。


その時、僕にとっては


近き者・・・目の前の相手、現実、小さな貢献

遠き者・・・多くの人たち、遠大な理想、大きな達成


であることが、瞬時に脳裏に浮かび
この言葉のメッセージを自己解釈したようです。


遠き者に働きかけようとして
近き者を見失うことだけはしまい。

目線を上げることが
足下をすくわれることにつながらないように。



世界は、目の前の相手の内側を突き抜けて
その先に、広がっているのであって
そこに飛躍はない。


ということを感じていました。


今日、ふと、この言葉を思い出して


最も近き者、よろこばすべき者は
自分自身だった。

来るであろう遠き者は
自分自身だった。


ということを考えています。


この言葉を聞いた時の自分がよろこび
今日の自分を呼び寄せたのかも。

そんな想いは、今日を楽しくさせてくれます。


今日の、このよろこびは
いつの、どんな自分を来たらしめるのか。
それもまた、楽しみです。



 出来事・日記 コメント(2)
知っている人。



一昨日のラーニングバー@東大で


語る時の主語が『I (アイ・・・私)」でなければ
語っている内容は、評論家的になっているのではないか。。。


のような、提起がなされていました。


「ウチの会社は・・・」や
「世間では・・・」や
「常識的には・・・」など

これらは、自らの考えを語っていない、ということです。


言葉巧みに流暢に語っているにも関わらず
なぜだか、響いてこない人とか

極めて論理的に話しているのに
ちょっと反論すると、急に意固地になったり
論点が全然噛み合なくなったりする


そういう人に出会うことがあります。
スタンスの取り方としては


「自分は人よりも『知っている』(という状態でありたい)」


というような願望
言い換えれば
「知っている」というスタンスを撮ることによって
「知らない」というコンプレックスから目を背ける
というようなものです。


このような、いわゆる「知っている」人は
様々な膨大な知見をカット&ペーストすることによって
「知っている状態」を維持しているのであって

実は「考えていない人」である可能性が高いと
「僕は」思います。

つまり
自分が何を知っているかについては
ほとんど「知らない」ということです。


知っているスタンスの人同士の対話は
噛み合ず、ちょっとしたことで対立します。

なぜなら、自分が語っていることは、自分が考えたことではなく
どうしてそういう結論になっているのかということを
自分では説明できないがゆえに
自分の語りに固執せざるを得ないからです。


知らない、けれど、考えている人、は
相手の話を聴けるし、問いに焦点を絞って答えることができるでしょう。


知っている人よりも
知らない人、考えている人になりたい。

僕は、そう思います。


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Learning Bar。



東京大学の中原先生が主宰する
Learning Bar(ラーニングバー)に参加してきました。


10月のワークプレイスラーニングに続いて
今年2回目の東大訪問です。


学食でのんびり食事して
銀杏並木の中を散歩しながら
学びの卒意(場を共に創り上げる気持ち)を高めてから
会場の福武ホール入り。


色んな分野から200名の方が参加されていて
すでに、ワインやビールを片手に立ち歩く皆さんによって
学びの熱気が立ちこめていました。

今回のテーマは「組織文化を変える!?」で
三井物産人事総務部の渡辺雅也さんと
神戸大学大学院経営学研究科の金井壽宏教授がゲストでした。


多様な人材の総戦力化を目指し
危機をきっかけとして、さらに本質的な思考を深め
組織全員で「良い仕事とは何か?」を考える風土を創り上げている
渡辺さんのお話には、明快さがもたらす力強さと
本気がもたらす密度を感じました。


金井教授は、渡辺さんのお話を受けて
組織と個人の、変わりながらも貫かれるものをもつ
しなやかさについて話され、中でも
ラインホルト・ニーバーの祈りとして紹介された

「変えられるものを変える勇気と
 変えられないものを受け容れる心の静けさと
 両者を見分ける叡智を」

という言葉は、自分と社会/組織を見つめる目線として
ひとつの指針をいただいたように感じました。


その後は
ビールやワインを飲みながらのディスカッションの時間。
席の近いみなさんと、ふたりのゲストのお話を受けて
それぞれが思うことを対話しました。

異なる組織の、異なる仕事を持つ皆さんが
思い思いに語る言葉、そしてその「違い」から
さらには、その「触発」から
自分の中に、ひとりでの思索では得られることのない
様々な「ざわめき」が生まれ、それが発言へとカタチになっていく。
そんな過程を自分の中に感じられる瞬間がとても楽しく感じられました。


中原先生のラップアップ(まとめ)で終わり。。。かと思いきや
東大の学生さんたちによるワークショップ部が企画された
次回ラーニングバーの予告プレゼンがなされ
実は、これが一番盛り上がったかも。。。

瑞々しい知性に支えられつつも、理屈に堕ちず
その時、その場にいた200人の聴衆をちゃんと感じた
相手目線でのプレゼンは、大笑いと感心と関心を共存させる
とても高度なものでした。

いわゆる「お勉強ばっかり」の東大生というイメージは
まったくありませんでした。すばらしかった。


東京行きは、時間もお金もかかって大変ですが
このような、様々な感性/思考に触れ
それによって、自分の中に、普段では得られないさざ波が起きること
それについて後で考える機会が持続できることは
何にも代え難い、まさにプライスレスの時間です。


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相談の力。




人に相談するということは
自分の抱えている問題、直面している現実を
説明できないといけません。


この問題を説明するチカラは
独りで悩む時には必要とされません。


ですが、問題を説明することは、問題を相対化することにつながり
それは、問題の原因を知り、解決への道を描くのに有効です。


したがって、独りで悩まずに相談しよう、という言葉の
本当の意味は、人から教えてもらおう、ということではなく
人に説明することで、問題を相対化しよう、ということではないか
とさえ、思えます。


次に、相談を受ける側はどうでしょう。
自分のことは、からっきしだらしないのに
相談を受けると生き生きしたり、とても納得される回答ができる
という人がいます。わりと多い。

なぜか。
ひとつは、相談する場合と同じで、人の悩みは相対化しやすい。
相対化すれば、解決への道は見つけやすい。
しかも、その道は、相談する側には見えていないことが多い。
なぜなら、当事者には見えないからこそ悩みになるのだから。

もうひとつは、相談を受ける、ということが
自分への肯定的な意識につながって、つまり自信になって
普段の自分よりも高次の能力を発揮できるということ。

能力の発揮は、持っている能力と直結するわけではなく
もちろん、それも多いに関係しますが、さらに
自分で自分をどのように評価しているかが、能力の最後の出口の鍵を握っている。

ポテンシャルは高くても、自己評価が低ければ
能力の出口から放出される能力は、ポテンシャルほど高くなりません。


相談される、という関係性において
自己評価が普段よりも高まって
発揮される能力を向上させる、という効果があるようです。


以上のように
相談する、される、という行為には
お互いの能力を高めあう効用があると推察されます。


お互いに相談しあう対話ワークショップ
というのが、いいかも。と、思います。

今日、やってみて
皆さんの顔が輝くのが実感できたので。


これは、発展させることにします。

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病む。



社会が病んでいる。


よく言われることです。
似たような表現を含めて。
今の社会は、真っ当でない、と。


そういう言い方は
わかったようで、わからない気がします。


社会、というものの実態がわからないからです。


社会、という「もの」は存在しません。
そこには、ただただ、様々な個人、主体、そしてその間の関係が
存在するだけです。


個人が、自分の周りに直接、間接に張り巡らされた関係性を
社会、と呼んでいるに過ぎないわけで
誰にとっても共通する社会なるものは、存在しえないはずです。


なのに、社会が病んでいるとは
どういうことか。


つまるところ
僕たちの、他者に対する見方が病んでいる。
他者とのつながりの中に、可能性を見いだせなくなっている。

つながりに可能性がないとき
社会は分断され、刹那的になるでしょう。


取り戻すべきは。。。


政治の腐敗を正すことではなく
官僚の無能を嘲ることでもなく
企業社会の冷血を訴えることでもなく


私と、あなたとの間の
関係を、かけがえのないものとして
味わい尽くし、願い尽くすことではないか。
と、思っています。



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のすたるじー。



テレビでFNS歌謡祭を観ながら。


1980~90年代のヒット曲が流れると
ノスタルジーや懐かしさの一言では表しきれない感情が
モゾモゾと動きます。


その歌を懐かしがっているのではなく

その歌を聴きながら
わけもなく悩み、放り出し、自己愛し
行き当たりばったりし、慎重なつもりの臆病さを露呈し
行動という名の逃避をし、ウジウジし、暴走した


そんな日々の自分を思い出していました。



遠い過去を思い出す時
記憶が薄れた分だけ、記憶の隙間に
甘い思い込みが紛れ込みます。

だからこそ
誰の心にも、古き良き時代があるのでしょう。


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噛む。



先日、京都にて
中野民夫さんのワークショップに参加して以来

よく噛んで食べる

ようにしています。


京都での昼食が玄米で
さらに、中野さんのファシリテートで
昼食時間が「食べる瞑想」の時間になり

参加者は、10分間、沈黙して
ただただ味わう時間を持ちました。

あごが疲れるくらい噛みました。
具沢山みそ汁と漬け物、という粗食(お寺でのワークショップでした)
にも関わらず、味わい尽くして、本当に美味しかったんです。


その味わい方の印象が強くて
帰ってからもずっと、よく噛んで、味わい尽くして食べています。


良い変化が3つ。


ひとつ。
お腹の調子が良い。

胃腸が弱いにも関わらず
もともと超のつく早食いでしたから
お腹を壊すことも多かったんです。


ふたつ。
薄味でも美味しい。

こってり強い味付けが好きでした。
が、粗食、薄味でも、素材を味わう楽しさがわかりました。


みっつ。
気分が落ちついている。

気ぜわしさがなくなり
じっくりとものを見つめようという姿勢が
わかってきた(気がします)。


噛むように、生きよう。
噛み方が生き方に現れる。


そんなことを感じながら
今から夕食です。

いただきます。
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多重文脈へ。



すでにできあがったコミュニティに
偶然でも、意志を持ってでも
初めて触れた時に感じる、ふたつの感情があります。


ひとつ。
入り込めない。。。気まずい。
自分の立ち位置をどう確保しようか。
だれか知っている人、いないかな。
話しかけやすそうな人、いないかな。


これは、よくある話です。


で、ふたつめ。
なんか、なれ合いの匂いがする。。。
だよね~とか、うん、わかるわかる。
見えないお約束の中で、核心を避けてるのが見える。
自分たちの世界に浸ってる。。。


これは、ひとつめの、入りにくさ、気まずさの
背後にあって、裏表の関係になってる気がします。
そのコミュニティーの「お約束」が入りにくさの原因であり
「お約束」を言い換えると「なれ合い」だったりします。


それぞれの会社、組織に
独特の風土があって、それは部外者からは
「何それ?そんなのあり?」のように
組織の常識が世間の非常識になることは多々あります。


ので、僕たちは、コミュニティーを築くことが大切であると同時に
コミュニティを相対化することも必要です。
そこに浸りきってしまって、お約束の中で生きてしまっては
外から見たら、「弱者のなれ合い」でしかなかったりします。


コミュニティを築き、その中に生きつつ
その外に、また別のコミュニティーと別の常識があることを自覚する。

そのために、いくつかのコミュニティーを生きる。
いわば、多重文脈を生きる。
そういうことが必要だと思います。


もし、自分が「先生」と崇められる立場にあるコミュニティーにだけいたら
そこから出ようとしなかったら
「先生」でいられるのは、その文脈においてのみだということを忘れ
なんとも、みっともない人になってしまいます。

テレビには、そういう人、よく見かけます。
あ、身近にもチラチラあるかも。


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