発創アリ。

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中野民夫さん。


京都に行ってきました。


場とつながりラボhome's viプレゼンツ
人づくり・まちづくり・場づくり最前線
「自分という自然と出会う~ワークショップの可能性と留意点」
講師は。。。中野民夫さん。


中野民夫さんと言えばワークショップ
ワークショップと言えば中野民夫さん。

中野さんの書籍はいつも読んでいて
その語り口、さりげないたたずまいから
とても刺激を受けていました。


その中野さんが、目の前に。


でも、やっぱり、というか、さすがというか


ただ、ただ、自然に
その時、その場に、いらっしゃいました。


その「あり方」を感じられただけでも
大きな学びでした。


午前中は
身体を整え、息を整え、気を整え

昼食は
食べる瞑想として、じっと味わい

午後は
参加したみなさんと語らい、探し、見つけ


とても豊かな時間を過ごすことができました。
自分にとって大きな課題、方向性を
いくつか見つけることができました。


今、ここに寄り添う
自然なあり方ができるファシリテーターになろう。

そんな気持ちを強くしました。


そうそう

念という字は「今の心」と書くことを
中野さんに解説され、ハッとしました。

これからは
「念力」を磨く決意もしました。


素敵な時間をくださった
中野先生
home's viの皆さん
ありがとうございました。



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気の散り具合。



陸上競技シーズンが終わって
2週間ほどオフにしていました。

トレーニングをいっさいせずに
シーズン中と比べたら、緊張感なんか全然ない生活。
仕事の緊張感はもちろんあるんですが。。。


気づいたのは
仕事の緊張感にくらべて
陸上競技の緊張感の方が密度が高いというか

それがなくなったここしばらくの間に
心身ともに、かなり緩んだようです。


この緩みは、残念なことに、いい方に作用していなくて
ちょっとした動作で、あちこちに痛みが出ます。

どういうことかというと
「気」が分散してしまっていて
心身がうまく統合されていない状態なんです。


緩むときでも
気の根っこを、しっかりと臍下に落ちつかせ
そこから全身をコントロールする感覚は
失ってはいけないようです。

緩めるとは
全部をダラダラにすることではなく

例えるなら
操り人形の、糸の起点はしっかりと持ったまま
それぞれの糸を緩める、という感じでしょうか。

また、心身をギュ~っと絞っていきます。
冬期トレーニングの開始です。

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開いて、閉じて。



福井県経営品質協議会主催
人づくり実践研究会の第3回目でした。


タイトルは
「そうぞうりょく?~願うチカラ、生み出すチカラ~」


想像力と創造力が
どこから生まれる、どんなチカラなのかを
仲間とのそうぞう活動(コラボ)を通じて
探求する時間にしてみました。


ファシリテートするに当たっての
今日のテーマは「閉じて、開いて、また閉じて」


想像も創造も
ひとりで孤独にするものではなくて
自分と対話する「閉じた」時間の次には

それを仲間とわかちあう「開いた」時間があってこそ
触発による想像の飛躍や創造が生まれるはず。

さらには
そこでの気づきを自分に取り込む「閉じた」時間を
持つことで、さらに熟成された想像と創造
言い換えれば、現実を変えうるチカラが
生まれるはず、という仮説を持って臨みました。


今まで最も伸びやかにそうぞうした体験を
内省したり、語り合ったり
そこでの学びを探しあったり

さらには、それを高校生に教えるとしたら
どんな科目になって、どのように教えのか、とか

それぞれの科目を持ち寄ったら
そこに生まれるのは、どんな学び舎か、とか


みなさんと一緒に、遊ぶようにそうぞうの時間を
過ごさせていただきました。

戸惑いながらも、苦笑しながらも
そうぞう活動に参加してくださり
ありがとうございました。


みなさんの気づきが
会場に閉じたままに終わらずに
これから外の世界に開いていくことを
祈っております。


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感謝と自尊の境目。



ひとつのワークショップは
いろんな方々のご協力をいただいて成り立ちます。
どんなに小さなものでも。

開催告知、会場設営、文具類用意、申し込み受付
記録、運営サポート、ご協賛などなど。
そして、何より、参加者の皆さん。


このような皆さんのご支援の中で
ワークショップデザインとファシリテーションを
担当する僕は、なんとなく中心に近い位置にいることになります。

企画して進行するわけですから
それは、そういう必然として。。。


で、そこで、しっかり自覚しないといけないなぁ、と
いつも反省させられる心境というものがあって
それが、感謝と自尊の境目です。


中心的な役割を担うと、どういうわけか
「自分がやらなければ」「自分にモレがあってはならない」
という心境になりがちで、そういう時に

「○○もやっておきましょうか?」とか
「じゃ、○○まで手配しておきます」とか

僕が全然気づいていないことを
スタッフの方が気づいてくださって
先回りして動くという場面で

一瞬、自分が恥ずかしくなったり
「あぁ、ミスったなぁ。鈍かったなぁ」
と反省モードに入ったりすることがあります。


反省は多いに結構なんですが
この現場で、その瞬間で起きる反省は
えてして「中途半端な自尊心」由来で
それは、あってはならないものだと考えています。


この場合は、「反射的に感謝モード」になることで
コラボレーションの温度が上がっていくものだと
体験的に知っているからです。

間髪入れず「あ、ありがとうございます。お願いします」
と、何のためらいも反省も自尊も交えずに
ストレートに感謝して、お願いするというキャッチボールが
共鳴的に広がっていく。

「自分ができないといけない」「自分はできなかった」
「ミスした」「恥ずかしい」などという
中途半端な自尊心が、現場で一瞬でも混じると
この感謝とお願いのキャッチボールが、微妙にタイミングがずれて
コラボレーションの温度があがりきらないまま進行します。


これは、対参加者(受講者)の皆さんにも言えて
ファシリテーターが引っ張らなければ、引き出さなければ
と思いすぎると、沈黙が恐くなって、かえって無駄なことをする
という悪循環になります。

参加者と一緒に創っていく
参加を感謝して、さらなる参加を期待する
そんなスタンスが場を共鳴させていくんだと思います。

要は、自分が共鳴しやすい脱力系の心身になって
その場に自然に「居る」ということですね。
中途半端な自尊心は心身を固くします。


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空気と発言。



原子力発電について
その現場を支えている当事者/責任者の方々と
一般市民が少人数で対話して相互理解を深める
「げんでんネクサス」という会に
ふとしたご縁で2年間参加させていただいておりました。


僕は原発に賛成でも反対でもない
「よくわからないんです」という無責任なスタンスでした。
が、2年間、あれこれと勉強させていただく中で
ようやく、その必要性とリスクについて
自分のものにできそうな理解を手にすることができました。


一方で、理解が深まったから
積極的に行動するか、といったら
それはそれで別の問題が、自分の中にあります。


正しいことを正しいと発言する
危ないことを危ないと発言する
必要であることを必要であると発言する
思いを他者に向かって公言することは

必ずしも、理解の深さとは相関しない
理解しているからといって、対外的に行動するわけでない。


なぜなら
他者とその集合体であるコミュニティ、そして社会の
空気を読んで、その結果で判断するからです。


要は、自分が「浮き」そうな発言はしない。


もちろん、信念に忠実な方もいらっしゃいますが
そうでない方の方が、おそらく多い。


エネルギー問題のような地球レベルのテーマは
少人数の信念に満ちた人に解決を任せることはできません。

ごく普通の
「臆病さ」と「無責任さ」という「常識」を持った人が
よってたかって意識を向けないと解決しない。


ここでいう臆病とか、無責任とかは
決して否定的な意味ではなく
そういう感覚が誰にもあるということを認めた上でなければ
全員参加の問題解決などできない
という現実的な意味です。


私たちは
意見を言う前に空気を読みます。
空気に抗う発言を避けようとします。
空気に抗う発言を受け入れ難く感じます。


であれば、すべきことは
正しいことを正しく知ることと同じく、いや、もっと前に

私たちは、何を感じているのか
をわかちあうことだろうと思います。


現代の社会問題は、おそらくすべて
極少数の信念の人、極少数の専門知識人によって
解決することは不可能でしょう。
全員の意識を集めることが必要。


であれば、これからの問題解決プロセスに必要になってくることは
そして、これまでは必要とされなかったことは

正しさの前に感情を共有する
何についてどう感じているのかを共有する
その後に、そもそも何が私たちにとっての問題なのかを考える

というものでしょう。

そこには分析も論理も正邪もありません。
なんとなく漂っている場の空気を共有することで


反対のための反対
批判のための批判
肯定のための肯定

といった武装された意見ではなく
生身の意見を交えることができるようになるのだろうと思います。


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瞬発系ファシリテーション。

福井経済同友会の
企業経営委員会/次世代イノベーション部会にて
アドバイザーを務めさせていただいております。


普段は、2ヶ月に1度の部会活動において
その時のゲスト講演者の後を受けて
20~30分、長いときは1時間程度の質疑の時間を
ファシリテートする、ということが多いです。


30分もあれば、いろいろできますし
ゆったりと構えて、務めさせていただいておりました。


が、今日は、制限時間5分。

福井新聞社の吉田専務の講演を受けて
残り5分間の質疑、という段階になって
突然、「お願いします」という「無茶ブリ」をいただき
なんだか、わけのわからない状態で
勢いで乗り切った(のかどうか怪しい。。。)という状態でした。


その時になって初めて
会場全体の皆さんのお顔と空気を感じ取ったわけで
そこから5分間のファシリテーションというのは
とても難題でした。。。


とても巧く務められたとは言い難いのですが
そのかわり、追いつめられた分、制約が厳しかった分
多くの気づきを得られました。

なるほど
一瞬で対応するというのは
こういうことが必要なのか、と。


まだ、うまく言語化できませんが
たしかに、感じ取りました。


走る練習にも
ダッシュしたり、ジョギングしたり
いろんな刺激を積み重ねて
速くなっていくのと同じように


ファシリテーションも
いろんな刺激/制約を受けることが効果的で
特に、今日のような、ありえないくらい厳しい制約を
真っ正面から受けとめると
すごい大きな学びが生まれる、ということを感じました。


これから、僕にお仕事/課題を与えてくださる皆様。
どうか、ありえなくらい厳しい制約条件を
与えてください。

きっと務め上げてみせます。

日々成長する決意を固めた5分間でした。
福井経済同友会の皆様
無茶ブリをいただいた日華化学の江守社長
ありがとうございました!


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見えない大きな違い。


性格が
明るいか、暗いか、とか
前向きか、後ろ向きか、というのとは
少し違って


何か、根拠はわからないけれどチカラを感じさせる人と
チカラを感じるどころか、減退させるチカラを発揮するタイプ
がいるように思います。


もう少し言い方を変えると
常に何者かになろうとしている、その可能性を感じさせる人と
評論家的に一歩引いて、傷つかない立場から出てこない人
とでも言いましょうか。。。


僕は前者でありたいと願いつつ
後者になってしまいそうな自分と格闘する
という毎日を送っております。

で、前者と後者の分かれ目、根本的な違いは何か
と考えると、結局、単純な答えに行き着きます。


自分は、きっと「できるようになる」
という未来志向、可能性志向があるかないか、です。

自らをリスクに晒さない評論家的スタンスに立ってしまう人は
自分は、もはや、「今以上にはなれない」という諦めがあって
それと対面することを無意識にさけることによって
結果的に評論家になるようです。


幼児は、万事にわたって
「いつかできるようになる」と考えます。
で、かなりの確率でそれが実現していきます。
何しろ、最初は、何にもできないわけですから
できることが増えるのは当然です。

ところが、大人は
脳細胞も、身体能力もピークを過ぎますから
テストやスポーツの能力は上がりません。
というわけで「いつかきっと、できるようになる」という
未来志向を持つことが困難になって
評論家的な生き方への引力が高まる、という構造だと思われます。


ここで考えをやめると、単なる悲観的仮説ですが。。。


私にはできないけれど
私たちにはできるかもしれない


という協働志向は、大人の方が熟達する可能性があります。
コミュニケーション能力は年とともに高まるという道もあるからです。
もちろん、年とともに、下がっていくケースも多々ありますが。。。


私は、もはやできるようにならない。

という悲観を

私は、誰かとつながったら
きっとできるようになる。

という楽観へと反転させるプロセスことが
チカラを感じさせる人
何者かになろうとしている人に内在する
見えない大きな違い、ではないでしょうか。

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らも&タランティーノ。



ファシリテーターとしての個性というか
スキルの奥底にあるマインドの色というか
そういうものは、いわゆる「勉強」「研修」を通じて
身につけたものではなく

ふたりのアーティストが光源となって
大きな影響を、今ももらっていることを
感じています。


作家/コピーラーターの「中島らも」
そして、映画監督/脚本家の「クエンティン・タランティーノ」。


脱力して間を置く。
混沌とした組み合わせを楽しむ。
本家本流を疑う。


言葉にすると、そのような姿勢を
膨大な作品群を通じて
僕に染み込ませてくれた方々です。



定期的に彼らの作品に触れたくなる時期がやってきて
今、そういうバイオリズムみたいです。


アートを光源に仕事を輝かせるエネルギーをもらう。
これは、僕の流儀かもしれません。

アートに関係ない仕事をしていても
アートの光を浴びせてみると見えてくるものがある。
そういう思考スタイルをとっています。


しばらく
らも&タランティーノ期間にします。

そういえば、タランティーノの新作が公開されてますね。

イングロリアル・バスターズ。

楽しみです。
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「むかつくんですよね」



とある裁判で
被告がちゃんと質問に答えない(と思える)姿勢に対して
裁判員が「むかつくんですよね」と発言して
裁判官に制止された、という報道を目にしました。


裁判員制度は
司法の世界に一般市民の感覚を取り入れる
という意図で導入されています。

このような「むかつくんですよね」も
その意図の範囲内と受けとめるべきなんでしょうか。
犯罪者であることが濃厚な被告は
裁判員から「むかつかれて」も良いのでしょうか。


なんだか、ひっかかります。


被害者が「犯人に、むかつく」(どころではすまないことが多いですが)
ことは、ごく普通の、市民感情だと思います。

けれども、何の利害もない裁判員が
「むかつく」という現象には
陥ってはいけない心理があるように思えます。
ましてや、有罪確定前の被告に対してなら、なおさら。


裁判員という「強さ」と「無関係性」が絡んだ立場だからこそ
「むかつき」の感情を自分に許容することは容易なことであり
だからこそ、自分を戒めねばならないことだと思います。

強さと無関係性(第三者性)が絡む時
その視点は、マスメディアの報道姿勢に極めて近似しやすくなります。
それは、野次馬感覚にすぎません。

もし、自分にそれを許せば
市民感覚とは野次馬感覚と同次元になってしまいます。

しかし、市民の感覚で人を裁く、ということは
このような次元でなされるべきことでは
もちろんありえないでしょう。

信じるべき市民感覚があるとすれば、それは
できうる限りの情報を理解した上で
自分の生活感覚の中で熟考した時になされる判断
というものだと思います。

それは、決して
その時、その場で生起した「自然な」感覚という名の
「野次馬感覚」、または「上から目線の感覚」ではないはずです。


その後の記者会見では
「むかつくんです」発言をした裁判員の方は
一時的に感情的になっていたことを認め
裁判官に制止されて良かったと発言していました。


この会見と報道がなされたことは
裁判員制度にとっての、社会的な省察の機会であり
本当に良かったと感じました。
 出来事・日記 コメント(0)
地震と指針と自信。



今朝、4時半頃でしょうか。
地鳴りがしたなぁ、と思ったら
グラグラグラ。。。



若狭湾が震源で震度1。


たいした地震じゃなくても
若狭湾が震源だと、やっぱりヒヤリとします。
日本で一番、あ、世界で一番?の
原発集中地帯ですから。


何かあった時に
何を守り、何を捨て、どこへ向かうのか。
そういう指針みたいなものを
自分の中にしっかりと持って
生きていきたいなと思っています。

揺らぎの中で
揺らぎを吸収する柔軟性と
揺らがない強固さを両立する
そんな自身の持ち方、自信の持ち方をしたい。


五重塔のイメージです。


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講座を作る講座。


ついつい独りよがりになりがちな思考を
相手目線で見直すには
「教える」という行為を「企画」することが
役に立つと思っています。


ので、僕のワークショップでは
「今日の学びを新入社員に教えるとしたら?」とか
「○○になるための10ステップを作ったら?」のような
課題を出すことがあります。


今日もやってみました。

「あなたがキャリアアップ応援講座を担当するとしたら
どんな講座を誰を対象に提供しますか?」


場所は、ユー・アイふくい(福井県生活学習館)主催の
女性のためのチャレンジ支援コース
「ロジカルシンキング&プレゼンテーション」(最終回)にて。


プレゼンスキル向上が、講座の目的のひとつですから
全員に全員の前でプレゼンしていただきました。


みなさんおひとりお一人の問題意識と熱意が
「想定する受講生」に向けて結晶化していく過程を
拝見しながら、とても心強く感じていました。


誰もが思いを持っていて
思いが焦点を結ぶ対象、きっかけさえ得られれば
誰もが語り始めることができます。


みなさんが企画した「夢の講座」の中から
ひとつでも、ふたつでも、実現して欲しいです。


これまでの学びの主流は
少数の「いわゆる知識人」による
多数への講義という、知識転移型学習でしたが

これからは
多数の「体験に基づいたリアルな意識人」と
多数の「実践を欲するリアルな意欲人」との間の
相互触発型学習が広がっていくのではないか。


そんなことを考えています。


受講してくださった皆様。
たくさんの触発をありがとうございました。

 出来事・日記 コメント(2)
そうぞうりょく?のご案内。


第3回人づくり実践研究会のご案内です。
「そうぞうりょく」(想像力と創造力)をテーマに
自分をふりかえりつつ、チカラをあわせてそうぞうする
ということをやってみたいと思ってます。

経営品質協議会主催ですが
会員でなくてもご参加いただけますので
アタマほぐし、ココロほぐしをしたい方
お待ちしております。



----------------------------------------------------------
「第3回人づくり実践研究会」
日  時:平成21年11月27日(金)15:00~18:00
会  場:日華化学(株)本社 7階 大会議室
テーマ:「そうぞうりょく? ~願うチカラ、生み出すチカラ~」
コーディネータ:発創デザイン研究室 代表 冨永良史氏
参加費:代表登録者または人づくり登録者:無料
     オブザーブ参加(未会員):5,000円
プログラム:
1.そうぞうりょくって何だろう?
2.私をそうぞうする~私はどんな人?~
3.チームをそうぞうする~私たちの学び舎?~
4.そうぞうりょくの源?
-----------------------------------------------------------

<以下、コーディネータからのコメント>

こんにちは、冨永です。
正解がない時代には、想像し、創造するチカラが人にとっても組織に
とっても大きな武器になるでしょう。
今回の研究会では、ふたつの「そうぞうりょく」を考えます。

想像力・・・願うチカラ
創造力・・・生み出すチカラ

ふたつのチカラは、どんな時に生まれるのでしょう?
追い込まれた時?褒められた時?期待された時?
何かが土台で、何かがその上にあるのでしょうか?

お互いの体験を持ち寄ってある人材育成ビジネスを「そうぞう」して
いただくという協働制作プログラムをご用意いたしました。

ゲストは参加者全員です。
自分を自在に表現し、理解しあい、協働するという体験を通じて
そうぞうりょくの源を対話し、学びあいましょう。

日常のプレッシャーやしんどさから解放される憩いと充実と発見の
ひとときを目指します。

アタマとココロのマッサージをしたい皆さんのご参加を心よりお待ち
しております。


お申し込み、お問い合わせは、下記まで。
---------------------------------------------------
訳合 孝 wake@fpc-fqa.or.jp http://www.fpc-fqa.or.jp
 社団法人福井県生産性本部 福井県経営品質協議会
 福井県経営品質賞委員会 福井アセッサーの会
  〒910-0005 福井市大手3-7-1 繊協ビル5F
  TEL:0776-30-0500 FAX:0776-29-1380 
---------------------------------------------------
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脱力系マーケティング。


毎日、毎日
新聞広告、折り込みチラシ、CM、DM
ネット上はどこをクリックしても広告につながって

お店でちょっと尋ねれば
1から100くらいまで説明してくれて
ゲップが出そうになるくらい。


世の中、どこもかしこも
とにかく自分の商品に目を向けてもらいたい
という意志が濃密に満ちています。

お役に立ちたいという言葉と
いかに素晴らしいか、特徴的かを謳う言葉が
虚栄と良識の合間を漂います。



かえって、何にもアピールされないと
気になって仕方なくなるとうことがあります。

いや、正確に言うと

アピールのない空間では
自分の感性にひっかかるものが
ふっと目とココロに飛び込んでくる

という感覚でしょうか。


昨日、くつろいだ時間を過ごした
カフェ&ショップは、そんなところでした。

どうにも使い道のわからないアイテムが置いてあったので

「これ、何に使うんですか?」

と伺ったら

「飾りみたいなものです。」

って。それでもわからないから

「え?どんなところに飾るんですか?」

「う~ん、机の上とか。。。
 気に入ったら、どうぞ~」


ものすごい脱力系のお答えがつづきます。
それが、なんとも心地よく響きました。


今度、買いにいこう。


福井のアロマハウス。
リンクは貼りません(笑)
気になったら、探してみてください。
 出来事・日記 コメント(0)
まとまった時間。



超多忙な時期を終えて
最近、まとまった時間がとれる日々です。


例えば、24時間×7日間の方眼状になった
スケジュール表に、今のすごし方を記録してみると
ものすごく非効率的というか、無駄な余白が多い
ということが明らかになると思います。


すごい目的意識を持って
すごい計画的、効率的に過ごしたら
大きな成果を出せたかもしれない時間が
過ぎていきます。


こういう時間のすごし方
緩みきった非効率な時間を、まとまって過ごす
というのは、僕にとっては欠かせないことかもしれません。


なんだか、定期的に、1年のうちに何回か
あまりに非生産的な、でも、リラックスした
豊かな時間がやってきます。


バリバリのビジネスマンから見たら
豊かどころか、だらしない不毛な時間ですが
僕にとっては、豊作の後の土地に雑草を放置して
休ませているような、そんな時間です。


大事にしたい日々です。

 出来事・日記 コメント(0)
福井のワールドカフェ。



ワールドカフェという対話手法を
ご存知の方はどれくらいいるでしょうか。

とても素敵な手法なので
簡単にご紹介します。


まるでカフェにいるような
リラックスした雰囲気の中
4、5人という少人数で
ひとつの問いを共有しながら
時につぶやくように、時に意志を込めて語り合い
問いに対する私たちの答えを探します。

小テーブル/グループが4つ、最大では20でも100でも
巨大なカフェを再現して
グループをシャッフルしながら
他のグループで起きていた対話を共有し
まるでミツバチの受粉のように
旅するように、他のテーブルを飛び回り
まるで我が家に帰るように
もとのテーブルにもどって
探求の旅で見つけたことをわかちあいます。


明確な結論を出すようなシステムではなく
参加者全員が問いに向き合いながら
会場全体で思いをわかちあい
答えを探していくという
集団思考/探求のための方法です。

ワールドカフェが進むにつれて
場内の熱気が高まり、ひとりひとりの知恵が解け合い
熱気と知恵が最高のタイミングと比率で出会った時
知恵の発酵/発光が起きます。

会場全体に、「あ、それだ」という
気づきが降りてくる感覚です。


僕は、この手法がとても好きで
規模の大小を問わず
自分が担当させていただくワークショップでは
ほとんどすべて、ワールドカフェを、もしくはそのエッセンスを
採用しています。

今年は、現時点で
のべ1500人以上の方と、ワークショップの時を
ご一緒させていただきましたから

福井県って、人口のわりには
実はワールドカフェ先進地かも(笑)


実際には
参加してくださった皆さんに
今の手法がワールドカフェということを
ちゃんと紹介するということは、していませんでした。

方法の特殊性や先進性に目を向けてしまうと
自然に対話する姿勢が損なわれるのではないかと
危惧しているからです。

横文字、カタカナ文字、新しい概念は
それが、そのようなカタチをしているというだけで
まるで効果があるもの、効果を出さなければならないもの
というように受けとめられ、ありがたがられ
時に、煙たがられるものですから。

いずれにしても、対話が
「ねばならない」状態になりそうですから。

カフェは、たださりげなくカフェであって欲しい。
「今、●○の方法で対話している」なんて意識したら
本当の対話はできない。対話への意識を消してしまいたい。
そんな思いで、皆さんと時を紡いでおります。

近頃は、ワールドカフェについての
書籍をはじめとした情報も、ボチボチと充実してきたようで
そろそろ、ワールドカフェしましょう、と
誘ってもいいのかな、と思い始めています。


僕のミッションは

思いを引き出す、紡ぐ、世界を動かすチカラに変える。

です。
まずは、福井の地で
思いを引き出して、紡いで、福井を動かすチカラに変える。
そんな思いが、近頃、浮かびます。

ワールドにつながる、福井でのカフェ
ボチボチ、やってみましょう。

 出来事・日記 コメント(3)
ムズムズセンサー。



基本的に人生に受け身というか
そう簡単には行動を起こさないタイプです。


思いついても行動するまで人の倍はかかります。
思いついても行動しない場合の方が多いです。
けっこうガマンします。躊躇します。


熟慮に熟慮を重ねた場合は
基本的に「思いつきを却下」するタイプです。


なのに今の現実は
あまり平凡とは言えない道を歩み
あまり類例のない立ち位置にいます。


行動派ではないのに
なんでこんなことになっているのか。。。

どうやら、熟慮しなかった場合というのが
ほとんどすべて、今の僕につながっているようです。


それは決して、勢いで勝負に出た、というのではなく
なんだか、心身がムズムズして
ひとところにとどまっていられない感覚で

そう、まるで
くしゃみをしたくなるような
しゃっくりが止まらなくなるような

そんな感覚で、行動が「起きてしまう」ことがあって
その結果が、今の自分です。


なんか、近頃
くしゃみが出そうなんです。
これは、なんか、あるな。。。


 出来事・日記 コメント(0)
鎮めて終わる。



ワークショップの最終局面である
「ふりかえり」の進め方、すごし方が
参加者の学びの深さや持続性に大きな影響を与えるのと同じく

というか、それ以前に

ファシリテーターとしての終わり方が
参加者のふりかえりに波及する、と考えるようになりました。


以前は、参加者の皆さんに
何を見つけ、何を感じ、どうしたくなったのか
を、ゆったりと問いかけるスタイルでした。


今は、それにあわせて
終わろうとしているその瞬間に
ファシリテーターとしての自分が何を感じているのか
をふりかえり、開示していくことで

参加者とファシリテーターとの相互作用による学びが
生起しやすくなるのではないか、と考えています。

一歩間違えれば「誘導」に堕してしまう
デリケートな手法ですが、あえてそこに踏み込んで
場が溶け合う瞬間を探している、というのが現況です。


学びの場を支援している自分も
学び手であることに変わりはない
という自覚を強めています。


ファシリテーとしてきた自分を鎮めて終わる。
その瞬間、心に広がっている波紋の文様を感じて終わる。
それが何を意味するのか、自問し、開示して終わる。


終わり方が、次の始まり方を決めるようです。

 出来事・日記 コメント(0)
意味を問う。



映画「風が強く吹いている」
を観てきました。

ド素人集団が
箱根駅伝を目指す物語です。


陸上部出身で
今でも走り続けている僕には
ど真ん中、直球、ストライクの映画で
ハートが激震する思いでした。


主人公の問いかけが
心の中に響き続けています。


「走るって、どういうことなのか知りたくなったんだ」



生きることの意味が問われることと同じくらい
走ることの意味を問われることが
僕にとっては、響きます。


なぜ、走るのか? 

ではなく

走るって、どういうことか?



一流アスリートは
努力を持続させる天才だとも言われますが
もしかしたら、彼らは
自らの行為の意味を問い続けているからこそ
高密度な努力を持続できるのかもしれないな
と思いました。


本当に好きだということは
本当の意味を知りたくて仕方なくなる
という状態ではないでしょうか。

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必殺、仕分け人。



官僚主導から政治主導へ。

仕分け人さんたちの奮戦ぶりと
官僚さんたちの苦悶ぶりが
公開されていて、興味深く拝見しております。


億単位の予算、事業が
ズバズバと切られていくのを見るのは
なかなかに痛快です。

でも、しかし。
そんなにズバっとキレるくらいに
十分な脂肪が溜まっているのかと思うと
すぐに、げんなりもしますけど。。。


とか、なんとか
複雑な思いを抱えつつ
ドラマ「必殺、仕分け人」を視聴しています。


で、やっぱり、一番気になるのは
「この場で、一番切られているのは何か?」
ということです。


無駄な予算、事業が切られているのは
もちろんだし、それはドンドンやっていただいて結構ですが。

もっと切られているように見えるのは
国家を動かすチームとしての一体感
政治家と官僚との肯定的な相補関係
のようなものです。


仕分け人の政治家さんは
舌鋒鋭く、国民の目線があるものだから
自分の知識のあるなしなんて、すっかり棚上げしちゃって
正義の味方気取りで、頑張っちゃってます。
痛々しい必死さです。

切られる側の官僚さんは
やっぱりメンツがありますからね。
単純な正義の論理だけで切られてなるものかと
ジタバタと抵抗します。
見苦しいけど、気持ち、わかります。


無駄な予算は切られなければならないけれど
政治家だけで国家は動かせない
実動部隊としての官僚は、どうしても必要。


であれば、政治主導の国家運営に必要なのは
政治家と官僚の信頼関係、役割分担の認めあい
だと思います。

ズバズバ切り込んで
ジタバタ抵抗して

予算はスリムになったけど
政治家と官僚の間には氷点下のスキマカゼが吹き荒れる
なんてことにならないか、不安です。

優秀な政治家とは
なんでも知っている(つもり)の人でもなく
(矮小な)正義感に凝り固まる人でもなく

自分より知っている人からやる気を引き出し
自分が変わることを恐れない柔軟性を持ち
大きな目的を見失わない大局観を持つ人

だと考えます。

仕分けの場が
そうなってるかな、と、やっぱり気になります。

公然のイジメをしたら
陰で仕返しされるっていうのは
正義感だけでは測れない、けれど、日常の原理ですから。
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やわらかに追い込む。


ユー・アイふくい(福井県生活学習館)主催の
女性のためのチャレンジ支援コース
「ロジカルシンキング&プレゼンテーション」
の初回でした。


女性ばっかりの講座っていうのは
なかなか慣れません。冷や汗が出ますね。

でも、やはり相対的に男性より
感性がしなやかな感じは確かにあって
冷や汗ながらも、ヒラメキもたくさんいただけるという
綱渡りの快感があります。


ロジカルに考える
ちょっとしたトレーニングをいくつかしながら
講座に参加した理由、終了時に達成したいイメージを
ロジカルにまとめて、プレゼンしていただきました。


達成イメージをみんなに宣言してしまったので
みなさん、もう、引き下がれない、はず(笑)
これからの展開が楽しみです。

冷や汗ばかりかいてるのもクヤシいので
みなさんを、やわらかく追い込んでみました。
ふぅ~、さて、次はどうしようかな。

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命マーケティング。



福井大学工学部大学院にて開講されている
玉木教授(福井キヤノン事務機社長)の
マーケティング論講義に遊びにいってきました。


この前まで2回続けてゲスト講師として
計3時間の「自分マーケティング」という
自己分析/キャリア開発系ワークショップを担当させていただいたので
その時の宿題の成果を拝見したい、と思ったのが一つと

あうたびに刺激をくれる
ウォンツの社長、どんまゐ鈴木さんが
本日のゲスト講師だったので、その講義が聴きたかった
というのが、もうひとつの理由です。


どんまゐさんの講義は、
ラジオでおなじみの軽妙な語りを交えつつも
とても真摯で真っすぐで、火傷しそうな熱ささえも感じるものでした。


心に残った言葉。
「自分が死なないと思うから悩むんだ」
「世界の国歌を創る」


命を燃やして生きてる
って感じです。

そういうテンションの話を聴くと

自分マーケティングという
僕のワークショップはまだまだ浅くて

世の中に自分の命の熱気をいかに還元していくか
という「命マーケティング」くらいの姿勢で
考えていきたいな、と思わされました。


その後
学生のみんなの、自己分析、企業分析の宿題を
見せてもらったり、議論したのですが

みんな、ちょっと高揚してるように見えました。
熱さは熱さを呼ぶんですね。

人の気持ちの温度
命が燃える温度が伝播する
ということを感じたひとときでした。


玉木先生
どんまゐさん
学生のみなさん
ありがとうございます。


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ご飯が。



近頃、やっためたらと
ご飯を美味しくいただいております。


メニューがどうこう、というよりも
お米が、その炊きあがりが
無上に美味いのです。


主食が美味いと
おかずも美味い。


ご飯が美味いと
生きてて楽しい。


生きてて楽しいと
コミュニケーションもうまくいく。
そうすると、やっぱり生きてて楽しい。


なんだ、楽しく生きるコツは
ご飯を美味しく炊くことだったのか。


そうなのだろうか。。。

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ロジカルの前提。



他者と対話して
その対話が深まるためには
前提として、自分との対話ができなければならない。
そう思います。


自分の想いに分け入って、問いかけ、掘り返し、寄り添い
何を思い、何を望み、何を避けようとしているのか。

自分の声に耳を澄ませるという受信機能の細やかさは
他者の声に耳を澄ませることにつながっている
と思えるからです。


伝えることの前提は
受けとめることにある。


とも言えそうです。


相手に伝えるには
自分が何を伝えたがっているのかに耳を澄ませ
相手が何を知りたがっているのかに耳を澄ませる。


曖昧模糊とした想いを受けとめる先に
明快なロジカルメッセージが生まれる。


真の意味でロジカルさは
繊細敏感な感受性の先にあるようです。


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「正しい」人。


対話してみると
自己の中に閉じている人には
2種類くらいあることがわかります。


ひとつは
完全に思い込みの世界に閉じていて
そこから出てこない人。


他方は
一歩引いたスタンスを取って
客観的に正しい言葉を紡いでいくだけの人。

これには、わりと技量が必要ですが
もう少し初歩的だと

教科書を読み上げるかのように論理的に
借りてきた論理を切り貼りする人、というパターンもあります。


いずれも、自分にバリアーを張って
傷つくことから過剰に守っていることにかわりはありません。
プライドが脆弱に高い、というアンビバレントな状態です。


守るための戦略は
「正しさ」を掲げることです。
しかも、きわめて狭い意味での、または表層的な意味での正しさを。
そんな正しさをバリアーにして、自己を揺らぎから守ります。

自己を守るための「正しさ」は
対話にとって阻害要因です。
そんなものは仮説でしかあり得ないという
不安定さに耐える強さに支えられてこそ
より強力な仮説へとたどり着く対話が可能になります。


「正しい」人が
「間違いな」人であることに耐える「強さ」を
身につけることが必要であることは

実は、当人が一番、知っているような気もします。

なぜなら、知っているからこそ
その恐さに向き合えない「弱さ」を露呈しているわけですから。


そこが、やっかいなところです。


あ、その他には
わざと「間違いな」人を演じるという
バリアーの張り方もあります。


なんだか、誰しも
「正しさ」や「間違い」を演じている世界
のような気もしてきました。

素でいるって
ものすごく難しそうです。


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感性ってなんだろう。

昨日のロジカル論?の続編。
ロジカルと、その反対の感性、情緒の関係についてです。


言葉とは、意味的な区分を主機能としているのだから
言葉を使う人間は、ロジカルにならざるをえない。
なぜなら、ロジカルの主機能も区分にあるから。


のようなことを昨日、書きました。
例によって、わかったようで、わからない文章というか
わからないようで、わかった風にも読める文章というか。。。


わかりきったことなら
わざわざ書きませんから
自分に問いかけながら書いてます。
基本姿勢は、自分に閉じず
内省しながら開く、です。


さて、というわけで、ロジカルにならざるをえない
という考え方は、わざわざロジカルシンキングなる講座を
受講される方には、なんとも受け入れがたい主張です。

そんなんだったら苦労しない。
努力しなくてもロジカルになれるなんて、と。


この、もっともな矛盾をどうしようかと
あれこれ考えています。


ロジカルであるはずの言葉を使いながら
何を言ってるのかよくわからない、非ロジカルな人は
感性とか情緒とかの意味を取り違え
その感性に邪魔されている。


と、考えてみました。


感じたままを伝えるのが大切なことで
それを言葉にのせれば伝わるはず。
そんな前提でコミュニケーションすると
わけがわからない喋りになってしまいます。


感じたありのまま=感性、情緒


では、ないはずです。
なぜなら、そこには
自分勝手な論理が紛れ込んでますから。


言葉を使う以上、人はロジカルですから
自分勝手な論理を抜きに「感じる」なんてことは
実は至難の業だと思います。

論理、しかも狭い意味での論理のフィルターを通した「感性」を
伝えるべき価値のある、瑞々しいもの、と捉えると
単なる自己中な人、わけわからない話してる人、になります。


というわけで、まず鍛えるべきは
自分の勝手な論理、要するに思い込みを自覚して
あれこれ論を展開するまえに、脱力して感じること
そのための、感性トレーニングをすること
だと思います。


とりあえず、今、自分が何をしているのか?
を感じ取る練習してみると
どれくらい自分の「感性」が「勝手な論理」に邪魔されてるか
よくわかります。


多くの場合
何かしながら、他の何かを考えていて
その瞬間に没入していることは稀です。

感性とは没入から生まれるはずです。
だったら、没入できていない今、感じていることが
伝えるべき価値あること、である保証はどこにもなく
勝手な思い入れに過ぎない可能性の方がずっと高い
ということになります。


ロジカルであるはずの人間が
ロジカルを学ばなければならない理由は
自分勝手な論理を感性と錯覚し
その感性を伝えるべきこと、と錯覚してしまうから。
今日のところは、そう考えています。


要するに
自分勝手な論理を自覚することが
感じること、考えること、伝えることの前提にある
と言えそうです。
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ロジカルってなんだろう。



近々、ロジカルシンキングについての講座を
担当しなければならないので
ロジカルとはどういうことかについて
あれこれ考えています。


僕は自分に対して
ロジカルであろうという欲求から
意識的に遠ざかるように仕向けています。


ロジカルであることが
嫌いだからです。

正確に言うと
ロジカルであることの欲求には
油断すると簡単に負けてしまうからです。


だからといって
ロジカルであることが
不要であると考えているわけではありません。


ロジカルでなければ
伝わらないことが、あまりに多くありますから。


一方で、ロジカルであるが故に
すくい損ねてしまうことも、多くあります。


人は、言葉を使う以上
ロジカルであることを避けられません。
なぜなら、言葉とは
あるものから、あるものを意味的に切り取る、区別する
という機能を基本にしていて
それこそがロジカルであることの基本だからです。


放っておいても、人はロジカルな存在です。
そして、だからこそ、ロジカルとは
不完全な認知形態であることを、どうしても忘れてしまいがちです。


ロジカルに詰めていけば
いずれは真実にたどり着く、とか

ロジカルであることは
必ず正しい、とか

そんなことを思ってしまいがちです。
でも、真実や正しいことだけを語ろうとしたら
人は、何も言うことができません。

ロジカルとは、言葉の裏に隠された
「単なる約束事」、でも「精密な約束事」の体系
に過ぎないからです。

それは、ひとつの約束事の中で「正しい」と言える
ということに過ぎないからです。


だから、本当に正しいことをロジカルに表現する
などということは、できません。


正しいことは言えない、という前提を
ちゃんと理解した上で
わかりあうためのひとつの手段としてロジカルであることを
採用する、という態度が必要だろうと考えています。


ロジカルと直観では
ロジカルが勝っている、などというのは
ロジカルな態度ではありません。

僕たちにできるのは、せいぜい
「なんとなくロジカルっぽい、正しそうに見える表現だけ」だと
そう謙虚なロジカルさが、必要だと思います。

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必死バリアー。



何事も懸命に打ち込んでいれば
助けてくれる人が現れるものだ。


なんて言い方をして
ひたむきにまっすぐに頑張ることを推奨するわけですが
あんまり度を超して頑張ってしまうと
かえって助けづらい雰囲気を醸してしまう気がします。


頑張り方にもよるのでしょうけれど。


何が何でもやり遂げねば
という思いが、完全に自己の中に閉じている場合
その必死さは、バリアーとして作用するのではないでしょうか。

あの人は
自分だけの力で成し遂げようとしている


と思われた時には
誰も手を貸そうとは思いません。
悪意という意味ではなく
貸せる雰囲気ではないのです。

他のチカラを期待していないという雰囲気すら
発してしまうからです。


手を貸したくなるのは
目的に向かって無心になりながらも
どこか外に向かって意識が開いている状態の人。

私は、これを
なんとしても成し遂げたいと思っています。
これは、みんなでやる甲斐があると思います。
手をつないでもらえませんか。


言葉にすると慈善事業じみてしまいますが
そんな解放系の必死さが
手をさしのべさせるのだと思います。


閉じてはいけない。
必死に開くべし、かな。
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揺るぎなく揺らぐ。



例えば、こんな言い方はどうでしょう。



成長にとって最大の敵は
揺るぎない信念である。


信念あってこその成長というのが
常識的な考え方でしょうから
「ありえない、バカな」と
思われてもしょうがないでしょう。


成長とは
個人の主体性のみによってなされるものである
と考えるならば、信念と成長のリンクは当然です。


しかし、一方
現実を常識的に見れば
成長とは、常に、他者との相互作用の中で
なされるものです。


相互作用とは
お互いに刺激しあって
以前とは違う自分になる可能性を
お互いに許容することです。


そこでは、ある種の「揺るぎなさ」は
阻害要因として作用します。

「私は、●○であるべきだ」

との信念は、揺らぐこと、変化することを
反射的に嫌い、強靭さとは相反する
尊大な保身という、みっともなさへと堕します。


他者との相互作用の中での成長を考える時
そこでは、自分を固定化したものとして考える
狭い意味での信念は、不毛であり

自分は、常に他者との関わりの中で
お互いに変化していくものであり
成長は絶えざる揺らぎの中にこそある
という揺るぎない思いこそが必要でしょう。


あなたは何者ですか?

はい、私は
常に揺らぎの中で学ぶことを
揺るぎなく志す者です。


そうありたいと願っています。
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秘めた目的。



先日の保育士予備軍対象の宿泊研修には
代々受け継がれてきた?変な?ナラワシがあります。


それは、研修に名前がない、ということです。
宿泊研修という名の宿泊研修なんです。


だからといって
宿泊するチカラを高めるための研修であるはずもなく
大学に申請する文書には、ちゃんと
「共生」「出会い」「道徳」とかなんとか
研究者向けの難解な言葉が並んでいます。

でも、それが研修のタイトルとして
学生に紹介されることはありません。


設定された目的のもとに
みんなの意識を向けさせた状態で研修をするのではなく
秘められた?目的のもとに、楽しく出会い、対話していく。
その結果として、目的に対してどんな成果が得られたか
というスタイルの研修になっています。


手段に没頭させることによって
手段そのものの合目的性を確かめる


かっこ良く言えば、そんな感じでしょうか。


全部が終わってから
目的がなんであったのかを
参加者に探求してもらう

終了時に
研修のタイトルをつけてもらう


そうすることで
過ごしてきた時間を
一気に総括的に振り返り
タイトルの一点に向けて、学びを結晶化できる
という効果もあるように思います。


「目的をまず最初に」というのは
あらゆる活動において、大前提とされがちですが
実はそうでもないようです。
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ダメだし志願。



心身の発達と負荷の関係
それから、負荷への覚悟についてです。


運動能力の発達には
筋肉に負荷をかけることが必須です。
それは、日常に受けている負荷と
同じではいけません。


いつもより
長く持続する負荷。
強い負荷。
違った角度からの負荷。


これらを与えることによって
筋肉や、そこにつながる運動神経が
再編成されて、より高次の運動能力が
獲得されます。


ただし、負荷を与えることを
筋肉に伝えないまま、不意うちすると
とたんに故障してしまいます。

ウォーミングアップなしの運動や
運動不足のお父さんが、急に子どもの運動会に出る
ようなものです。


運動能力と負荷、そして負荷をかけることを伝えること
の関係は、知的な発達にも言えそうです。


知的な面において、褒めれば伸びることは確かでしょうけれど
プレッシャーやダメだし(精神的な負荷)によって
伸びることもあります。

ただし、筋肉と同じように
負荷を予測できない場合は
故障したり、または過剰に防衛したり、反撃したり
といったことが起きます。


上司から、いきなりダメだしされて
凹んだり、逆切れしたり、というケースです。

しょうがいない面もありますが
これでは、貴重な成長への機会、負荷を無駄にしてしまいます。


そこで必要なのが
負荷の志願という考え方です。


今からダメだししてください。
私の成長のために、お願いします。


と周囲に志願するのです。
これだと、精神的に覚悟が決まってますから
不意の負荷にはなりません。

筋トレのように受けとめることができます。


私をどう評価していますか?

という中途半端な問いかけでは
内心、プラスの評価も期待してしまうので
負荷への覚悟も中途半端です。
これでは、故障につながります。


負荷を成長へ向けて活用するには
今から負荷を与えるぞ、という告知を
精神や筋肉に与えること。


そしてもちろん
十分な休養、つまり内省とリフレッシュが
必要であることも、筋肉と似ています。
 出来事・日記 コメント(0)
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