発創アリ。

2009 10
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ワークプレイスラーニング2009。



東京大学で開催された
「組織」と「学習」に関する産学協同シンポジウム
ワークプレイスラーニング2009


に参加してきました。
東大の門をくぐったのは、学生時代以来15年ぶりくらい。
何年たっても、やっぱり東大は東大。
アカデミックな気、オーラ、イオンが流れてますね。


ワークプレイスラーニングとは
研修による学びと成長だけではなく
働く場そのものを学びの場に変えた方が
成長、発展に結びつきやすいという考え方です。


よって、このシンポジウムも講演者からの一方通行ではなく
ケースの紹介は、あくまでも学びの素材として提示され
それに学者の皆さんがコメントや問題提起を加えた上で
1200人の参加者が一斉にご近所さんとディスカッションし
メールで質問を送信するという双方向、会場全体での探求の場でした。


企画の中心であり、当日の進行を担当された
中原淳先生の言葉を借りれば

従来型の一方通行型が
「聞く、聞く、聞く、聞く、帰る」
であったのに対し

今回の探求型の取り組みは
「聞く、考える、対話する、気づく、講堂を出て語る」
という、終了後への学びの持続、波及を企図したものでした。


ケースの提供は
カルチャー・コンビニエンス・クラブ
アサヒビール
バンダイナムコホールディングス
と多彩で

担当された皆さんのプレゼンが
それぞれに個性と高い力量と信念に支えられていて
とっても刺激をいただきました。

刺激がさめやらぬ内に気鋭の学者の皆さんによって
様々な切り口で問題提起され

単に「すごいなぁ~」でおわりそうになっている脳味噌を
「いやいや、そんな単純じゃないでしょ」と揺さぶられ
揺さぶられたままご近所さんと対話する

という構成は、ワークショップの形態としても
非常に参考になりました。


以上は、シンポの手法についての学びですが
内容そのものについても、たくさんの学びがありました。
が、しかし、それは、もうちょっと
熟成するまで、自分のつたない言葉にするのは待とうと思ってます。

脳内に気づきのキーワードが渦巻いていて
まだ、どれとどれが、どのようにつながるのか
自分でもわからない状態を楽しんでいます。

あぁ、楽しかった。
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発起の瞬間。


コーディネーターを務めさせていただいております
福井県経営品質協議会の人づくり実践研究会で


どんな時に
人は伸びるのだろう?
伸ばすには何が必要なのだろう?


という対話をしました。


成功体験を振り返ってもらうと


追い込まれた時に伸びた


という答えがある一方で
落ち込んだ体験を振り返ってもらうと


期待された、褒められた、認められた時に
立ち直った


という答えが多く出されました。


いったい人は
追い込まれれば伸びるのか
褒められれば伸びるのか

追い込んでから褒めるのか
褒めながら追い込むのか


ただ褒めるだけなら
緩んでしまうのか、それとも伸びるのか


ギリギリまで追い込んで
独力で立ち直る時に伸びるのか


発起の瞬間はいつなのか?


今、そんなことを考えています。


次回、人づくり実践研究会(11月27日15時~)では


伸びるという現象を
想像力、創造力という切り口で
改めて考えてみる予定です。


テーマは「そうぞうりょく?~願う力、生み出す力~」です。
追い込まれても願う力を失わない、なんてことが可能なのでしょうか?
可能だとしたら、なぜ?
そうぞうりょくの源に迫ります。

詳しくは、また後日。


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相手センサー。



自分の脳内にあるイメージを
相手に伝える時に
一番障害になるのは


自分にはイメージが見えている
という事実です。


相手には
そのイメージが見えていない

という事実は、考えるまでもなく明らかです。
だから、まったく白紙の相手の脳内に
丁寧に丁寧に伝えていかないといけない。


そんなことは、誰しも簡単に理解できるのですが
「自分には見えている」という事実が
「相手には見えていない」という事実を見失わせます。


見えているものを
見えていない人に伝えるには


自分には
相手の脳内が「見えていない」
ということをカラダで理解する
相手センサーが必要です。


このセンサーを磨けば磨くほど
話は伝わりやすくなり
世界が拓けていくと思います。


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自分センサーの取り説。



私たちは
自分でも把握しきれないくらい繊細で敏感な
体感、察知能力を持っています。

自分センサーとでも呼びましょう。


勘が当たるという現象は


無意識のうちに知覚していた様々で膨大な情報が
ふとしたきっかけで、一挙に意味を持ってつながり
ひとつの予測として像を結ぶ


というメカニズムで説明できることが
多々あるようです。


それは完全なる予知ではなく
むしろ高度な分析にもとづく予測。
自分センサーによる情報収集に支えられています。


そういう能力は
誰にでも、すでに備わっているはず。


けれども
私たちの「知識」がその能力の発揮を邪魔します。


知識を学び始めると
あらゆることが、知識なしには解釈不能のように思えてきて
知識のないことについては、思考停止するか
専門家の意見を鵜呑みにします。

また、知識のあることに関しては
自分の感覚にフタをして、知識によって解釈しようとします。


知識に合致しないことは知覚せず
知識に合致することは、過大評価する。


私たちは、まず第一に、もっと
自分センサーを信じ、使うべきではないでしょうか。


知識は
自分センサーによってもたらされた
生々しい情報によって生み出されたり、検証されるべきものです。


知識と自分センサーの関係が逆転したとき
私たちは、「自分であること」を他者に明け渡し
知識の切り貼り細工のような、不毛な対話しかできなくなります。

自分センサーを使いこなしつつも
他者の自分センサーによって変わることを恐れず。


自分センサーの
取り扱い注意事項です。
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責めず、守らず、欲張らず。



このところ
ワークショップをする時に
よく使う、お気に入りのフレーズがあります。


(自分を)
責めず、守らず、欲張らず。



話しあいを阻害する要因のほとんどは
根っこに自意識へのスタンスの取り違いがあります。


話が聴けないのも
話に脈絡がないのも
発言できないのも
攻撃的になるのも


どれもこれも
自意識を守ろうとするがゆえです。


大きくみせようと思えば
上からの物言いになったり
批判に対して過敏に反応したり。


自分を低く評価していれば
それ以上評価を下げないように
何も言えなくなったり。


これらのことは
自分が自分に向ける目線に原因があるわけですから
自分でなんとでもなることです。


話しあいを創造的にするために


自分を
責めず(過小評価せず)
守らず(過大評価せず)
欲張らず(力まず)

リラックスしていること。


ファシリテーションやプレゼンの
あらゆるスキルの根底にある
大切なココロのありようだと思っています。

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ココロブランディング。



福井県立大学短期ビジネススクールin鯖江で
ブランディングの講義を担当してきました。


3回シリーズで
全体のテーマは「中小企業のブランド戦略」。


僕は、第3回担当。
前2回は、ブランド戦略の専門家による講義と
自社ブランド化に成功した経営者による講義&アドバイスでした。


で、僕の回は「ブランド創造会議」と題して
参加者の皆さん同士の対話を通じて、自身のココロの奥底にある
本当に届けたいメッセージを探してビジュアライズする
というワークショップをしました。


ファシリテーターがブランディング?
という疑問もあると思います。


でも、ブランディングとは
自分が一番大切にしたい価値を発掘して
相手に伝える活動をデザインすること
そして、その実行であるはずで

そのためには、自分や仲間との対話が必須です。


社長だけが自社ブランドを考えて
社員が誰も理解しなければブランドになりませんし

自分が何を大切に思っているのかが
モヤモヤとした状態では、またはアレもコレも状態では
ブランドとして伝わりません。

いずれも、対話によって
発掘し、鮮明化し、共感を生み出していかなければなりません。


というわけで
みなさんのブランディングを
ファシリテーターとして、お手伝いさせていただきました。



ブランディングは
カタチではなく
まずは、ココロから始まる。


自分のココロに鮮明に価値が描かれたとき
同僚やお客様とのコミュニケーションは活性化し
そこにブランドが発生する。

価値を描くには
ココロの奥底を探求する対話が必須。


だから、ココロブランディング。

そう考えています。
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学び舎で参観。



福井市至民中学校で
公開研究会に参加してきました。


参加者の多くは
教職関係者のみなさんだったようですが
特に限定もなく、開かれた研究会です。


至民中学の名前は
中学生の頃から知っています。
というのも、とある運動部がメチャクチャ強くて
僕のチームなんて、まったく歯が立たなかったからです。


というわけで
僕の中では、至民中学は、長らく体育会系の学校という
勝手なラベリングをされて記憶されてきました。


そんな学校の名前を、最近
久しぶりに聞いたのは、体育だけではなく
授業も生活も、そして校舎空間も
すべてを革新的に挑戦している学校としてでした。

福井市特別研究指定校に位置づけられています。


1、2、3年が、イベントだけでなく
常時協働して学びあい、世代継承していくクラスター制。

70分の対話型授業を
教科エリアに出かけていって受講する
教科センター方式。

地域住民のみなさんと一緒に学校を作っていく
地域連携。


そして、それらを支える
驚くほど開放的な校舎。


建築にも教育にも興味がある僕には
願ってもない公開研究会でした。


贅沢な空間を使って行なわれる
チームによる対話型の授業も印象的でしたが

あっ、と思ったのは

あらゆる空間を埋め尽くす
「学びの痕跡」です。


数学エリアには
数学の問題や、その手書きの解答が
大きく張り出されているのが
前を通るだけで、丸見えです。

その他の教科エリアでも

そこで何年生が、どんな問題(問いかけ)に
どのように答えてきたのか

という学びの痕跡に埋め尽くされています。


校舎全体に、あらゆる教科についての
「問いかけ」があるのです。
問題文というよりは、誰かに語りかけられているような雰囲気です。


たとえ意味がわからなくても
生徒達は、そこを通るだけで
常に、学び(問い)に触れることになります。

廊下と教室の境目がなく
というか、廊下も教室の一部というオープンな構造なので
どこもかしこも、学び空間です。


自分の中学時代を思い返すと
上の学年がどんなことをしているのかは
進級して授業を受けてみるまでは、実感としてわかりませんでした。


でも、この中学では
校舎を歩き回るだけで
素肌感覚で、他の学年が、何をどう学んでいるのかがわかります。

さらに、学年を超えたクラスター制で活動するので
先輩後輩の交流ネットワークも細やかに広がります。



この研究会に参加して
これからの、対話で成長する組織の姿を見た思いがします。


誰もが、学び/活動の痕跡に日常的に触れ
年齢、部署を超えて細やかに紡がれるネットワーク
あらゆる活動の根幹に対話と探求がある。
それを支えるオープンな空間。


オープンさの中に
心地よい創造的な混沌。


刺激的でした。
対話の可能性は
これから無限に広がることを
改めて確信しました。

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威光の光源。




何をもって人の集団を
束ねていくか。


この問いへの答えが
大きく転換してしまっていることに
気づいている人はどれくらいいるのでしょうか。


圧倒的な能力差が
人を束ねる要因なのか。


権力の差
人事権や評価権を持つ者が
持たざる者を従わせるのか。


ルール、規範によって定められた役割によって
従う者と従わせる者に分かれるのか。



上の例は、いずれも
右肩上がり、大量生産時代、工業化社会においてなら
十分な説得力をもつ答えだったはずです。


今は
低成長、時折、急激な右肩下がりで
多様化、高速変化、環境調和型、知識生産社会です。


考えなければならない幅と深さが、格段に大きくなり
ひとりで担える役割、専門知識は
全体から見たら、ごくわずか。

細分化された専門知識をもちよって
チームによる最適解探しをしなければなりません。


学校教育においても
そのような社会への適応力を高めるために
教え込む授業から、探求型授業へと変化しています。


そこでは
能力差は相対化され
従来の権力と役割は空虚に空回りします。


今、これからのリーダーは
何を根拠にチームを束ねるのか。

威光の光源は何か?


おそらく、それは
全身全霊で、メンバーの活躍の場を支え続けること。
問いかけ、引き出し、意味を紡ぎ、自負心の根拠を与えること。
答えのない時代であっても、自前の答えを探す自律伸によって
動機づけられていること。

そのようなリーダーの姿勢こそが
メンバーに安心と目的意識と協働意欲をもたらすはず。


知らなければならないのは
圧倒的な業務知識ではなく


多様性の中に協働をもたらす
人間についての洞察。


威光の光源は
大きく変化しています。

従来型のリーダーシップは
暗闇の中に閉ざされていくでしょう。

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自分解説。



もう、ずっと昔のことのように思えますが
原監督とイチローが率いた侍ジャパンが
WBCを制し連覇を果たしたのは
この春のことです。


日本中が熱狂し
僕はまったく仕事に手が着かなかったのを
覚えています。


優勝を決める一打を放ったイチローは
大会期間中のほとんどを不調に喘ぎながら過ごし
その後、胃潰瘍によってメジャーでのシーズンを
故障車リストからスタートしましたが

シーズンが終わってみれば
大リーグ2000本安打、9年連続200本安打、最多安打
という記録を、当たり前のように打ち立ててみせました。


そのイチロー選手が
WBC直後のインタビューで
決勝の一打を放った打席について

とても大きな恐怖を感じていたこととあわせて
「自分で自分を解説していた」と述べていたことが
印象に残っています。


「自分で自分を解説」とは

まるでテレビの野球解説者のように

「さあ、イチロー構えた。一球目、見送った
 2球目、ファール。3球目。。。」

といった具合に、自分の状況を第三者の目線から解説することです。


それを聞いた直後、僕は
少しでもリラックスするために
茶目っ気を無理矢理装ってみたのかな、と思いました。
でないとプレッシャーに押しつぶされそうだったのかなと思いました。

でも、以降のイチローの活躍を見ていて
思い直しました。


あそこで
状況の中に没入しないこと
プレッシャーや、それに打ち勝つための闘争心と同化しないこと
それこそが、イチローのメンタルスキルではないか。
今は、そう考えています。


今、自分がどういう状況に置かれて
その中で、何をどう受けとめ、どう感じているのか

そういうことを相対化して
心身の揺らぎを最低限に留めているように思えます。



自己受容と言ってもいいし
良い意味の開き直りでもあるでしょう。


この、自分に対する鋭敏な感覚が
自分をとりまく相手、状況への鋭敏さに反映され
抜きん出た対応力を生み出しているのではないでしょうか。


優れたアスリートは
高い知性を持つ、と聞きます。

このセルフモニタリング能力が
その源であるように思います。


研ぎすまさなければ。
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自意識。



対話を困難にしている様々な現象の根幹には
ほとんどの場合


自意識があります。



自意識とは
自分に対する意識です。


自分のことをどう思うのか。
自分をどう思われたいのか。


この意識と他者から自分に向けられる視線のギャップを
埋めるための行為が、対話を邪魔します。


過剰に尊大になったり
過剰に卑屈になったり


どっちも根っこは
自分を守りたいという意識。
傷つきたくないという意識。



でも、何を守るのか、どのように傷つくのか
については、ぼんやりとしか意識していない場合が多い。


本当に守りたいなら、傷つきたくないなら
その正体を明らかにしなければならないはずなのに。


明らかでないから、守りたい。
というアンビバレントな意識があります。

本当は、明らかにしたくない
という思いかもしれません。


自分で自分の正体と向き合うことが恐いから
人から現実を突きつけられるのが恐くなる。


対話は、相手を受け入れること、と言いますが
実は、その前に

自分が何者であるか
実は、たいしたことのない普通の人間であるということを
ちゃんと正面から受け入れないと

対話にならないわけです。


ほとんどの人が
どこにでもいる、ごく普通の人間で

すごそうに見える人でも
完全無欠ではありえない

という、自分と他人に対する
お気楽な脱力感が必要です。

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足はどこから。


自分のカラダで
どこからが足なのか
わかるでしょうか?


足の付け根でしょうか。


足の付け根よりも
ずっと奥、少し上に股関節があることを
知っているでしょうか。感じられるでしょうか。


では、股関節から下が足でしょうか。


太ももを動かす筋肉が
みぞおちのやや下の腰椎から伸びていることを
知っているでしょうか。感じられるでしょうか。


腰椎の動きが
肩甲骨の動きによって増幅されていることを
知っているでしょうか。感じられるでしょうか。


筋肉の構造では
胸から下が足、と言ってもいいくらいです。

トップスプリンターは
首から下が足、というような動かし方をする
とも言われています。

全身を波動がうねるように動かします。


これは、私たちの日常の感覚とは
かなり違っているのではないでしょうか。


運動不足の人にとっては
膝から下が足、という感覚であっても
おかしくありません。

股関節をあまり使わずに
膝下だけ、ピョコピョコ動かして
今にも転びそうな歩き方をしている
メタボリックなおじさんは、めずらしくありません。


現象の遥か奥に
感覚を研ぎすました先に
そのパフォーマンスの原因があります。


それは、日常の感覚で現象の外側を見ていても
絶対に見えない、理解できない。


足が、足の付け根から始まるという
誤った感覚や

足が、膝から下しか動かせないという
退化した感覚は


私たちのあらゆる感覚についても
言えるのではないか、と思えます。


見えているままに、感じているままに。
それでは、何も見えない、感じていない。

研ぎすまさなければ。
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格差アリ。



近頃は
何でもかんでも
「格差」という言葉で表現されて

差があることが、いけないこと

のように解釈されている。。。ように見受けられます。



親の収入が学歴に格差をもたらす


これは、まだ、共感の範囲内ですけど


地方出身者は東大に入っても
友人関係が狭いので、卒業後の進路、出世に影響する


ここまでくると
「そんなの本人次第。差があったってしょうがない」
「東大まで入れてもらって、泣き言?」

という感覚で、反感を覚えます。


格差だと言って
何が解決するのかが不明です。



格差とは
ゴールを共有した時に
同じスタートに立てないこと

を言います。
しかし、同じスタートに立てるのは
スポーツの世界など、ごく一部で
日常のほとんどは、誰もが違うスタート地点に立っています。


一方で
「違い」や「障壁」は「創造の源」です。

そこには単一ゴールといった「思考停止」はなく
自分のゴール、革新的なゴールを生み出す可能性があります。


持つ者と持たざる者が
同じゴールを目指すから
泣き言が生まれる。

持たざる者は
常に持たざる者ではなく
ゴールを違えれば
逆に持つ者になる。


誰も彼もが
一流企業に入ることを目指すなら
学歴を得られない経済的な違いは
致命的な格差だけれど

そのゴールは
果たして普遍的に価値あるものなのか


本当の格差は
このような疑問を持てない「思考停止」の中にある。
そう考えなければ、世の中のほとんどの人は
格差の不幸に呑み込まれていくと思います。


単一ゴールへ向けたレースを
相対的に眺めれば

持つ者になるのも
持たざる者になるのも
実は自分次第でしかない

と思えます。
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看板を背負う。



発創デザイン研究室のシンボル/ロゴは


(a+b+c+・・・)×?=!


です。

aさん、bさん、cさん、色んな人がいますが
括弧で括っただけではチームになれなくて
そこに「?」というコミュニケーションを掛け合わせて
それがもしうまく機能すれば、びっくりするような成果「!」が出るはず。
そのコミュニケーションを考えましょう。

というメッセージを込めています。
名刺に、僕の名前より大きく刷り込んであります。



最近、仕事用のリュックサックを新調したのを機に
その全面に、このロゴを大きく貼付けました。


文字通り、看板を背負って歩いている状態。


歩いているだけで
気が引き締まります。


このロゴに込めたメッセージの体現者になろう。


そんな想いを込めて
一歩一歩を踏み出しています。

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学びの効率。



スカッと納得して終えることが
次の一歩の動機になる。


必ずしも、そうではないです。


クッキリとした理解
合理的な結論
異論の余地のない合意


会議や学習において
そのようなものが求められ

それは、短時間で手間を少なくなされた方が
効率的である、ということで、高い評価を受けます。


そこで得られた動機、気づきの
持続、発展可能性という視点で捉えると
違った見え方が現れます。


私たちは
答えを得たときよりも
問いを得たときの方が
より長く、深く考えます。


なんだかモヤモヤする終わり方
矛盾だらけの終わり方

そこから始まる気づき、学びへの道のりは
思いがけず新しい視点を与えてくれることがあります。



「わかりやすい講義でした」という評価は
プログラム提供者にとって嬉しいものですが

一方で、本当に学びの契機を提供できたのだろうか

という不安がよぎります。


効率的な学びとは
短時間で鮮明な理解を与えることでは
必ずしもないと思います。


わかりにくく、モヤモヤして
なんでこうなるんだろう、という疑問を残した方が
人は考え続けるからです。

学びとは
教育プログラムの中に「閉じて」存在するものではなく
プログラム終了後に「開けて」存在するものであるべきはず。

であれば、その効率とは
外の世界への接続と持続の可能性によって
測られるべきものだろうと思います。


学びの契機の提供者/ファシリテーターとして
「わかりやすさ」「安易な効率」への迎合を戒めつつ
「矛盾」「モヤモヤ」への恐怖と対面しようと
思っています。

 発創する勉強術 コメント(0)
女子力。


福井市男女共同参画/子ども家庭センター主催で


女性のためのスキルアップ講座
~話しあう、まとめる、伝える会議力~


を担当させていただいております。



今夜が、その2回目。
「アイディアを生み出す力」を
みなさんと一緒に探しました。



「女性のため」の講座ですから
もちろん、女性ばかり30数名です。


僕の普段のビジネス系講座では
男性の参加者が圧倒的に多いので


このように、女性ばかりの講座を開くと
男女の行動特性というのが
浮かび上がってきます。


何千万人もいる男女ですから
僕の経験など、高々知れたものですが
それでも、強く感じるのは


女性の方が
締め切り圧力に強い


ということです。


ワークショップでは
様々な課題を、短い制限時間の中で
密度濃く話しあって、結果を出すことを求めます。


男性ばかりの場合
時間切れが近くなると
開き直りモードになり、「時間延長やむなし」という
雰囲気がただよいはじめます。


ところが、女性ばかりの場合
時間が迫れば迫るほど、「なんとしても終わらせる」という
締め切りへの対抗意識?のようなものが発生して
追い込まれるほど作業効率が上がるのです。


サンプル数が少ないので
僕の独断も入っているとは思います。


でも、もしかしたら
女性の方が、生活の中で
多様な役割(妻、母、仕事などなど)を
限られた時間の中で担っていく状況にさらされているため

このような、締め切りへの発奮が生じるのかな

と思いました。


ちなみに、ブレーンストーミングをしても
出されるアイディアの数と多様性は
女性の方が、かなり多いように思います。


女子力、恐るべしです。


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大学院で語る。


福井大学工学部大学院にて
MOT講座のお手伝いをしてきました。


客員教授であり
日本経営品質賞企業の福井キヤノン事務機
の社長でもある、玉木さんが担当される
マーケティング論のワークショップです。


この講座は
社会経験の少ない学生に
マーケティングを理解してもらうために

玉木さんのアイディアで

自分マーケティング(就職のための自己分析)
と企業マーケティングの実例を
同時並行して学ぶ

という仕組みになっています。


で、僕が担当したのが
自分マーケティングの部分です。


今日はその初回で
これまでの自分をふりかえってもらい
対話を通じて、その背後にある個性、価値観を取り出す
ということをしてみました。


若い学生さんと、こういう対話の時を持つと
物理的な時間を取り戻すことはできなくとも
自分の価値観の棚卸しもできて

固まりそうになっていたものを
再度、揺さぶる機会になります。


学生の瑞々しいリアクションによって
自分の中に、浮動を取り入れることができる。
という感じです。


年を重ねれば重ねるほど
自分をあえて不安定にさらす、ということが
必要になってくるな

そんなことを感じながら
語りの時を過ごしました。

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授業月間。



なぜだか今月は
大学の授業のお仕事が多いです。


福井大で
キャリア系のワークショップ。

福井県立大学で
ビジネススクールの一環として
ブランド構築ワークショップ。

仁愛女子短期大学で
保育士養成の宿泊研修。


仁愛大学の授業は前期の間ずっとしてましたが
短期の間に、3校のお仕事というのは初めて。


授業という、比較的短時間の間に
エッセンスを濃縮した、密度の高い時間をデザインするのは
僕の志向にあっているようで、とても好きな仕事です。

どっちかというと
瞬発系の思考回路を持っているようです。


持久戦の仕事は
苦手だなぁ。

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身体感覚の時代。



いろんな人が触れるようになっています。
僕もそう思います。


これからは、今まで以上に
知性と身体感覚は
両立を目指すことが必要。。。というか
その方が、生きやすい、生を燃焼できる、と。


メタボリックな知性は本物ではなく
筋肉まみれのアスリートも本物ではなく


カラダで感じ
カラダとともに思考する
全身思考。
まるで音楽のように考える。


それは
才能に恵まれた人の境地ではなく


だれもが目指して良いのではないか
それは可能なのではないか


と考えています。


カラダで生きるのに
脳へのインプットはカラダを通じて行なわれるのに
脳だけで成り立つ知性など、本来、ない。


痩せたインテリ、太った権力者
疑問を禁じ得ません。


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想いをカタチに。


つい先日
福井県中小企業団体中央会主催

農商工連携人材育成講座の
第3回目として

「想いを形にするコンセプトづくり」


というワークショップを担当させていただきました。


これから農業を起点に、商工業と連携して
新たなビジネス展開を模索したいという方々を対象に
開かれている講座です。


僕の仕事は農業には無縁なのですが
一人ひとりの想いを対話を通じて引き出し
ビジョンというカタチにまとめるという点では
応用可能だろうということで
お話をいただいたわけです。


一種のキャリアプランニング/ワークショップという解釈で
お仕事に臨ませていただきました。


個人の将来ビジョンという内的なものを
本来あまり関係のない初対面の研修仲間に開示しつつ
対話を通じて鮮明なカタチにしていくという作業は
とても難しいと感じる一方で

他者の刺激によって想いが発掘されるという
ダイナミックな瞬間もある、可能性を感じる1日でした。



個人的な問題解決を
その問題にあまり関係のない人に開示すること
開示しあい、質問しあう中で
解きほぐされていくという対話は

カウンセリングなどの対面コミュニケーションとは
少し違った位相にあるように感じました。


多様な個性に触れる中で
自分を多面的に見つめて
自ら問題を解決していくヒントを拾い集め
想いを紡いでいく。


これは、よく考えれば
私たちの日常そのものの一形態でもあります。


今は、他者との相互干渉/触発の機会が
特にリアルな場面では少なくなっているので
ワークショップという人工的な空間で再現する価値があるのか
とも思わされました。


実は、この種の、個人のビジョンを多様な対話の中で組み立てる
というワークショップの仕事が、立て続けに入ってきております。

個人のキャリアを
組織コミュニケーションの中で考える

個人と組織のキャリアを融合する

というのは、今年の念頭に掲げた僕の目標の一つだったのですが
なにかが引き寄せられているのでしょうか。
不思議なチカラを感じるこのごろです。

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走って銭湯。



今年に入って
仕事のスタイルが急速に変化してきています。


最初は徐々にだったんですけど
いつのまにやら以前とはかなり違う姿に。


論理的な準備をしなくなりました。
感性的な準備に気をつかうようになりました。


ワークショップに臨むときは
以前は、いろんなパターンを想定したうえで
即興的に臨むというスタイルでした。
プログラムを何種類も用意して安心するというイメージです。

今は
どんな問いかけをして思考を深めていくか
その問いの内容を内省的に紡ぎ出すことに
多くの時間を割きます。
即興で臨むことにかわりはありませんが
プログラムの準備は極めて手薄で
かわりに深い内省の結果としての問いが準備されています。

これがココロの準備たとすれば
カラダの準備もあります。

ワークショップ当日には
できるだけ走ることとお風呂に浸かることに時間をとります。

ゆったりストレッチして
気分の赴くままに走り
温泉やスーパー銭湯など、大きなお風呂に浸かって
心身ともにゆるめます。


そうすることで
ワークショップで初めて出会うみなさんの
存在、感情へのアンテナを敏感にできるし
即興への反射神経が高まるからです。


ココロの準備の効果を最大限に発揮するために
カラダの準備をしています。


ワークショップがないときは
音楽や映画や文学になるべく多く触れるようにしています。


論理なくして生きていくことはできないけれど
少なくとも僕は、受験競争以降、過剰に論理に浸されてきた
と自覚しています。

論理のレンズで捉えられる対象は
その対象の全てではなく
論理によって説明可能なものだけ。

四面四角なレンズを
ゆるゆるでやわらかなレンズに取り替える。


そんな日々を過ごしています。


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