発創アリ。

2009 03
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意欲と発想を引き出す会議術。


地元でワークショップというのは
かなり照れくさいです。


昨夜は、地元越前市にて
武生青年会議所にお招きいただきまして


「意欲と発想を引き出す会議術
 ~何に引き出されるのか?~」


というテーマで2時間半のワークショップを
務めてきました。


青年会議所というのは
地元企業の次世代を担う方々の集まりで
年齢的には僕と同じくらいなので
子供時代から知っている同級生がいるんです。何人も。。。


そういうところで、講師というのはキツイです。
冷や汗かきながらの2時間半でした。



さて、「意欲と発想は何に引き出されるのか?」
などという大仰なタイトルを掲げつつも
実は、たいした答えは用意しておらず

いつものことですが
参加者の皆さんなりの答えを一緒に探す
という進め方をしてきました。


ひとりひとりが違う心と体と経験を持っていますから
意欲も発想の引き出され方もいろいろです。

追い込まれて引き出される人もいれば
余裕があるときに引き出される人もいるでしょうから。


いろんな違いはあるものの
おそらく誰にでも共通することは


人として信じられ、期待された上で
魅力的な問いを与えられた時


意欲と発想が引き出されるということは言えそうです。
僕はそんな思いを込めて


安心感を醸すような暖色系のパワーポイントスライドに
「何に引き出されるのか?」と大きく書いておきました。


皆さんにリラックスしていただき
取り組むべき「問い」を明らかにすることこそが
僕の最大の仕事だと考えているからです。

それこそが、皆さんの意欲と発想を引き出す源だと考えているからです。


それが、メッセージのすべてだったといってもいいくらいです。

問いを立て
一緒に考えましょうと誘う。


意欲と発想を引き出す会議術の極意だと思っています。


ありとあらゆる場所で
意欲と発想を「押さえ込む」会議が今日も開かれています。


「何を」話し合うのか?も大事ですが
「どのように」話し合うのか?が意欲と発想に大きな影響を
したがって、結論への納得度や実現可能性に大きな影響を与えることを
忘れてはいけないと思います。


武生青年会議所の皆様の会議が
ますます意欲と発想に満ち満ちたものになりますように。

学びの時間をありがとうございました。
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 発創する会議術 コメント(4)
境界を越えて。



大阪に行ってきました。



最初に就職したのは大阪の会社でしたし
大学以降、長く関西に暮らしたので
とても親しみを感じる街です。



今回、お招きいただいたのは


中小企業青年中央会の
近畿ブロック交流会です。


各府県にある中小企業青年中央会の
正副会長の皆さんが一同に会する交流会で


青年中央会の未来を考えるワークショップを
務めさせていただきました。
タイトルは

青年中央会『これから会議』近畿版
~未来を対話する~



対話の意味や方法、効用について
簡単に説明した後


これからの青年中央会はどうあるべきなのかを
府県の境界を越えて対話していただきました。


府県バラバラに混ざった各チームから
それぞれに個性的な将来像が描き出される過程を
見つめながら、新しい場が紡ぎ出されていくように感じていました。


それぞれの府県で
それぞれに異なる活動をし、異なる課題を持つ皆さんが
出会い、受けとめあい、ひとつの大きな将来像を共有していく。


まだまだ途上ではありますが
このような対話が拡がっていくことによって
引き寄せられるであろう将来がとても楽しみになりました。


対話によって
違いが超えられ
未来が拓けていきます。


近畿ブロックの皆さんの間に生まれた対話が
今後も将来を育み続けるものでありますように。


ありがとうございました。

 出来事・日記 コメント(2)
事実はどこにあるか。




大学時代に
エドモンド・フッサールという哲学者のことを知り
彼の創始した現象学という思想に魅了され続けています。



僕がファシリテーターを志した源体験は
少年時代まで遡りますが
理論的な確信、基盤のようなものを与えてくれたのは
まぎれもなくフッサールの現象学です。



主観はいかにして
客観的事実を捉えうるのか?



という哲学史上の巨大テーマを



客観的事実の存在は証明しえず
その確からしさが主観の志向性によって
構成される。



という構図の転換によって乗り越えようとしたところは
対話の可能性を大きく拓いて見せてくれました。



誰からも独立して存在する事実の存在は証明できない。
できることは、私にとっての事実の認識。
そして、私たちにとっての正しさとは何かを探求すること。



僕達は
絶対的に正しい、唯一無二の真実を探そうとしたとき
対立へと導かれるようです。


主観が客観を捉えうるという前提からは
出口のない対立が生まれます。


僕達は
それぞれが、それぞれの認知スタイルにより
いろいろな「わたしにとっての事実」を捉えています。

その延長線上に
「わたしたちにとっての事実」を生み出すことができると
信じるとき、対立ではなく、触発、創造が生み出されるようです。


ここにあるのは
主観は客観をとらえ得ない。
事実は、生み出される。

という前提の転換です。



転換するためには
「わたしにとっての事実」への確信を
保留することが必要でしょう。



事実は「ある」のか、「生み出す」のか。


ここに
対立と創造の別れ道があるようです。



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