発創アリ。

2008 12
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1000人と紡ぐ。




2008年の仕事を
ぼんやりと振り返っていて
ふと思いつき、数えてみました。



1000人。



今年
ワークショップで出会った皆さんの
のべ人数です。

大学の授業や、シリーズのワークショップを含めると
さらに膨らみます。

カテゴリーに分けると。。。

官庁
公民館
地域の各種団体
NPO法人

小学校
大学

企業
異業種交流会



たくさんの皆さんと
一緒に対話する機会に恵まれたことを
本当に幸せに思います。


僕の夢、理想は
個性を持った人と人が交わるあらゆる場面で
違いを超えて、ひとりではできない何かを生み出せるような
そんな対話を紡ぎ出していくことです。


僕ができることは、とても小さく、限られています。
皆さんに働きかけ、問いかけ、触発され、触発し
育み、生み出す対話を、一緒に紡いでいきたいです。


数値目標は、ほとんど持ったことがありません。
どれだけの皆さんと、対話の時間を持てたかを
振り返るのには、この人数は、目指すに値するかなと思いました。


来年、この2倍、3倍の皆さんと
密度の濃い対話ができるよう
そんな場に必要とされる人間であるよう
謙虚に磨き続けます。


人と人の交わりから生み出される力は
まだまだ開花しきっていないはずです。

個人が組織の中で成長し
組織が個人の交わりの中で成長する。
その先に、本当の意味で豊かな社会が、きっとある。


そう信じています。



たくさんの刺激をくださったみなさん
お会いした方も、お会いしてない方も
社会のすべてが、学びと成長の源だと思っています。


ありがとうございました。
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生き切る。




三国志(北方謙三著)を
このところ、ずっと読んでいます。



現実に許される人生は
たった一度きりですが


三国志の世界に浸れば
志に燃えた男達の人生を
何人分も寄りそうことができます。


生きるとはどういうことか
生き切るとはどういうことか


問い直しを迫られます。


物語の世界から現実に戻った時
「生きるのは、今、この一瞬。たった一度きり」
という揺らぎようのない事実が
身に迫ってきます。


生きる



生き切る


の違いをあいまいにしたくない。


謙虚に
志を見失わず
今この時を歩みたい。


そんな思いがめぐる年末の夜です。
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年末年始、読み尽くす。



残った仕事は
紀要論文だけで
あらすじはできたので
御用納めの気分になりました。


年末年始は読書三昧にしようと
図書館にいってきました。


じっくり落ち着いて読みたい本を
揃えてみました。


テーマは「生きる」です。


「マイ・ドリーム」(バラク・オバマ)

「違いを超えた創造」ができる人ではないかと
今、一番注目してるオバマ次期大統領の自伝です。
あの勇気と自負心と情熱と知性は
どんな背景を持っているのか知りたくなりました。


「三国志」(北方謙三)

全13巻ですからね。。。現在8巻目。
こういう時に読まないと、なかなか完走できません。
男の生き様のお手本がたくさんあります。


「断絶の時代」(ピーター・F・ドラッカー)

もう40年も昔の本ですが
時代の変わり目をどう読み取るのか
という視点が、とても勉強になり、今でも生々しさを保っています。
というか、この人、ノストラダムスよりすごい予言者です。
恐ろしい正確さで、現代を予言しています。



「チェ・ゲバラ伝」(三好徹)

革命に人生を捧げた人に触れたかったんです。
広く長い視野を持ち、可能性を確信し
そこで命を燃やす生き方を知りたいと思いました。



「深夜特急」(沢木耕太郎)

超メジャーな旅行記です。
大好きな本で、もう何度も読んでいます。
どうしても人に勧めたくなる本です。
買うたびに、人にあげたり、貸したりして、手元にありません。
大学の時の貧乏旅行には、この本を持っていきました。
沢木さんの旅に憧れて、僕も27歳の時、旅立ちを考えたことがあります。
心の洗濯をするには、ぴったりの本です。




いろんな人生、旅に触れて
来年の新しい旅に備えます。
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発創年賀状発送。



絵を描くことは
けっこう好きです。


5歳の娘と
たまにお絵かきあそびします。
娘より熱中してるかも。


上手いとは言えません。
娘に言わせると、「可愛くない。怖い」だそうです。
色を一杯つかって、グチャグチャ描きこむので。。。

それが、僕の気持ちの表れなんです(笑)
描いていると、気持ちがほぐれて、伸びやかになります。


キレイにカッコよく描こうとすると
ぜんぜんダメダメで

思い切ってペンを走らせると
なんだか気持ちがうまく表現できるみたいです。
落ち着きます。


気持ちを込めて年賀状も
お絵かきしました。


「可愛くない、怖い」年賀状は
明日、発送予定です。
発創を届けられますように。
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年末の週末。




今年最後のワークショップを
東京で終え、昨日深夜に帰宅。


残っている仕事は
机の上ですることばかり。


年末の週末を
ちょっと呆けて過ごしています。

たくさんワークショップさせていただいたなぁ。
色んな表情、色んな言葉、色んな人模様に出会ったなぁ。

と思い返しています。



去年から今年への変化で一番大きかったのは
大規模ワークショップのご依頼が増えたこと。


100人を超える皆さんと対話するような時間も
かなりありました。



それは、ヒリヒリするような緊張感と
思わぬ展開が生成する悦びに満ちた時間でした。
大勢の人が集まることで生まれるエネルギーと
場のダイナミズムのようなものを肌で感じました。



すでに来年の予定表にも
大規模ワークショップがいくつか記入されています。
何が起きるのか?何が起こせるのか?
今からヒリヒリしてきます。



一方で、10人に満たないワークショップも
いくつか経験させていだきました。


お互いの内面に深く共感して
共鳴を起こしていく過程は
大規模ワークショップとは違った波が起きます。


多様な人が集うことで生成するエネルギー、波動、ダイナミズム。。。
そんなものをたくさん経験させていただいた1年だったと思います。


そんな場にファシリテーターとして立つ時
本当に、丸裸になったような気持ちになります。
人として誤魔化しがきかないというか

普段の何気ない自分、オフの時の自分、見られていないときの自分
それらが全部表に出てくるというか、透けて見られてしまうというか。

どんな知識をもっているかではなく
どんな技術をもっているかでもなく

誰にも見られていない時の僕が
何にどのように向き合っているのか

それが問われるのがファシリテーターの立ち位置だと感じます。
ファシリテーターは人格総力戦。


イバラの道ですが、棘が刺さるたびに成長のチャンスが見えます。
自分がそういう道を選んだことにとても満足して
今年最後のワークショップを終えました。


一歩も無駄にせず一歩一歩謙虚に
理想を仰ぎつつ、足もとを見失わず
来年も歩もうと思います。



今から
大学の紀要論文を書くことにします。
最後の大仕事、大晦日までにできるかしら。。。

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書見台。



書見台をご存知ですか。



本を開いた状態で
ページを軽く押えて固定し
45度くらいの傾斜をつけて
読みやすいポジションを維持できる台です。


なんだか、まどろっこしい説明になってしまいました。。
これを使えば、手を離した状態で本が読めます。


本の文章をワープロに打ち込む時に利用するつもりで
少し前に購入していました。

最近、普通に読書する時にも使うようになりました。
それがもともとの用途なんですけど。。


あまりにスゴイ効用なんで、びっくりしてしまいました。
本に没頭できるんです。多少難しくても、集中力が続きます。

本を手に持って読んでいた時は
ちょっと難解になると、あちこちページをめくってみたり
イヤになって放り出したりしてました。


手に本の重さを感じることなく
ただただ目を通じて文字を脳に送り込むことだけに
集中できるのが良いのかもしれません。

本を手で支えるとか、厚みを感じるとか
そういう情報が脳に「ノイズ」として作用するのでしょうか。

本から手が自由になると
脳がいつもより働きます。




読書における書見台のようなものを見つけるのは
思考の深化にとって、とても大切なことかもしれません。


僕達の脳へ届くノイズを取り払ってくれる環境を
探すこと、生み出すこと、それを可能にする道具立てを考えること。


最近、一番のナルホド体験でした。

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饒舌と沈黙の間。


会議で饒舌な人と沈黙がちな人がいます。
そこには人柄の違いだけではなく
思惑の違いがあります。

現象を人柄の違いに帰結させるとき
会議は不毛な対立の場になります。

動かしがたい人柄ではなく
環境と相互作用した結果としての思惑に帰結させるなら
会議は濃密な対話の場として生まれ変わるはずです。



思惑。やや大げさに言い換えると戦略。


誰しも何かを得たり、守ったりするために
自分の口を開くのか、閉ざすのかを決めています。


饒舌な人は、沈黙の人は
何を得ようとしているのか。
何を失うまいとしているのか。


それが明らかになったとき
より建設的な「交換」や「取引」や「妥協」や
さらには「創造」が生まれるでしょう。

これらのことが明らかになっていないままに進行する会議は
明らかになっている会議よりも遥かに多くあります。

公然と明らかにすることを嫌い
あいまいな言葉や無言で、腹の内を探り合うことは
交渉能力のひとつと言えるでしょう。


腹の内を探り合うことを
大人社会の嗜みのように扱う考え方がありますが
それは、自分達がやってきてしまったことを
動かしがたい、解決困難なものとして
正当化しているだけのようにも見えます。

「腹芸」など
使わないにこしたことはないはずです。
そのチカラを前に進むエネルギーに変えることをこそ
考えるべきでしょう。



多くの場合、明らかにされていないことは
もしくは、明らかにされるのを嫌われることは

自尊心、面子、羞恥心

といった
主題とは無関係な、しかし結論を大きく左右する
したがって、とても幼稚な感情です。

幼稚だからといって切り捨てるわけにもいきません。
誰にもある感情ですから。



自分の意見の「本当の論拠」が明らかにされないまま
対話をすることほど不毛なことはありません。

この感情から自由になれる環境を提供することでこそ
主題と直結した思惑、戦略がぶつかりあう
本来の対話が生み出されるはずです。

この感情を押し込めつつ対話するとき
「腹芸」が必要になります。


今、自分たちがしている対話が
幼稚な感情を脱した建設的な思惑を持った次元でのものか
それとも、面子や羞恥心を守らんがための不毛なものか

その見極めと、解決するための対話環境の変更は
目を向けられることの少ない根治療法です。


饒舌も沈黙も、同じように
「何も語っていない」ということが
実は、多いようです。
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生存者あり。



月に一度は映画館に行っています。
日常と完全に切り離された空間で
非日常の物語に没入できる時間は
僕にとって何物にも替え難い価値があるんです。


映画「252-生存者あり-」


を観てきました。


台風に襲われた東京で
地下鉄の駅に閉じ込められた人たちを
レスキューが救出する映画です。



日本テレビ製作の映画で
フジテレビの社屋が津波に呑まれるのは笑いました。
他の時間はほとんどずっと、ストーリーに呑み込まれていました。


ギリギリの状況で
何が何でも助けようとするレスキューと
何が何でも生き残ろうとする人たち。

その姿に、フィクションだということを忘れそうになって
今、自分が、生きているということが
奇跡的な事実であるように思いました。


帰り道。
もし、今、この瞬間、大震災が起きたら。
生き残るために必要なことは何だろう。
そんなことを考えていました。


我が家には、いくらかの非難用具と
食料や水の蓄えがあります。
在宅中に被災すれば、それらが役に立ちます。

でも、その確率は、思っているより低いんだろうな
ということに気づいたからです。


緊急事態は
備えているとき、備えている場所で起きるわけでは
ありませんから。


であれば
生存するために必要なことは


周りを冷静に見回し
生存に必要なことを見極め、関連付ける思考力と
それを実行に移すためのコミュニケーション能力
そして体力。



これらを常に持っているためには
今、生きていることが、奇跡的に在り難いことだということを忘れず
今、この瞬間を生ききることだろうと思えました。



世界恐慌の不安が漂う現在において
生存者になるために必要なことも
きっと似ているのでしょう。


古代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは

誰も過去や将来を失うことはない。
現在を失うだけだ。

という意味の言葉を残しています。
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ワタシとワタシタチの間。




ある企業の社内講演会に招かれまして


「チームのチカラを引き出す。」


というタイトルで
講演&ワークショップをさせていただきました。
100人くらいのご参加で
5~6人のグループに分かれて


チームのチカラの源


について考える時間です。
問いかけは2段階にしました。


1.あなたは
  どんな時にヤル気が出ますか?


2.もしリーダーだったら
  チームのチカラを引き出すために
  何をしますか?



「ワタシ」のヤル気の源を探索した後で
そのような欲求を持つ「ワタシ」の集まりである
「ワタシタチ」(チーム)のヤル気の源を探索する
という順序です。



「ワタシ」のヤル気の源を探索することに比べて
「ワタシタチ」のそれは難易度が格段に上がります。


「ワタシ」と「ワタシタチ」の間には
単なる欲求の足し算があるのではなく

相反する欲求の対立や
欲求の類似による増幅や
価値観の相違によるすれ違いがあり

その中で共通するヤル気の源を探索することは
「ワタシタチ」の存在理由、背景にまで踏み込む必要があるからです。

ワタシの欲求を探す時点では
このような難課題はありません。



このワークショップの目的は
ワタシとワタシタチの間にある断層を感じ取り
ワタシの目線を越えた高みから
ワタシタチを眺め、理解するということでした。


チームのチカラの引き出し方を
心理学や社会学の書物から知ることの容易さに比べて
ワタシとワタシタチの間にある次元の違いを理解することは
はるかに難しく、しかし、それがあってこそ
様々な知識、スキルを吸収し、使いこなすことができるはずだと
考えているからです。



最近、「チーム」をテーマにした依頼が続いています。
僕の問題意識がそちらに向いているせいもあるのですが
それだけではないはずです。


先の見えない危機の中で
様々な不安が組織と個人を取り巻き

組織はより根源的なチカラの源を探さなければならない時に
さしかかっているように見えます。


お金でもなく、技術でもなく、設備でもなく、商品でもなく


そんなチカラの源が
ワタシとワタシタチの間に
潜んでいると考えています。
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槍玉と阿りの間。


槍玉【やりだま】
人を槍の穂先にかけて突き刺すこと。
非難攻撃の対象にすること。


阿る【おもねる】
へつらうこと。追従すること。
機嫌をとって気に入られようとすること。



不安定な状況の中に
希望を見出せなくなると
このような態度が表出しやすくなります。


槍玉にあげるとは
自らの思考の正当性を棚上げした態度
または、そこを突かれたくないが故の攻撃性であり

阿るとは
自らの進む道を探求することを放棄し
他者の影響力の中に身をゆだねることです。



不安要素を排除し
自分の安定度を増したいという欲求によるのでしょう。

現在のような不安定な世情においては
「槍玉」と「阿り」は強い磁力を持ちます。


しかし、いずれの態度によっても状況は改善しえず
むしろ、柔軟性の喪失を経由して
不安定さの増幅へと辿り着くように思えます。



強力な磁力を持つ
このふたつの態度の間に立ち、前へ進むには



不安と正対し
何が起きているのかを理解し
希望と可能性を高める道を生み出すこと。


内省と探求
と言えるでしょうか。


そこでの他者は
槍玉や阿りの対象ではなく


対話を通じて自己撞着を回避し
思考の開放性を維持してくれる
触発源ということになるでしょうか。


槍玉と阿りの間にある道を
見失いたくない。。。


古代ローマ皇帝
マルクス・アウレリウスの「自省録」を読み返しながら
そんなことを思っていました。
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拙速な触発。



「議論」や「話し合い」は
「積極的」でなければならないとは
限らないだろう、ということを考えています。


活性化した話し合いでは
ひとりで考えているときにはない
思考回路が作動します。


お互いの発言に
触発されるからです。


自分の思考と違うパターンの思考に触れることで
その「違い」や「距離」を埋めるべく
普段とちがう方向へ思考するからです。


これが
話し合うことの最大の効用なのですが
この効用が常に「正」に作用するわけではなく
「負」にも同じくらいの割合で作用することを
忘れてはならないと思います。


ポンポン「積極的」に言葉をやりとりすれば
それだけ思考が活性化して
普段とは違うアイディアが生まれやすい。。。

ですが

普段と違うことは
普段より優れていることを
必ずしも意味しないわけです。


売り言葉に買い言葉的に、いらぬ対立を生んだり
ありえない空想に飛んでいったり
カドがとれたお利巧な話になったり



おかしな表現になりますが
これらの「優れていない話し合い」は
「言葉を発するが故に」生まれるわけです。


相手の言葉は
自分の思考の触発源だからです。



お互いの考えを伝え合った後に
お互いの考えを、じっと「眺めあう」だけの時間
議論も質問もしない、なにも発言しない時間
を持つということで


「拙速な触発」を避けられる


と考えています。
ただただ眺めるだけ
その間に、お互いの間にある違いと距離が見え
そこから、ゆったりと立ち上ってくる思考の中にこそ
「触発の果実」があるはずです。



「議論」という言葉からは
「言葉で埋め尽くされた時間」というイメージが浮かびがちで
実際、やり込められないように、行き詰まらないように
言葉を発するという姿勢は、よく見られます。


この「議論」の捉え方だけでは
「拙速な、負の触発」が生れてしまいます。


議論とは
意欲を持ち過ぎると
壊れてしまう

とも言えるかもしれません。



ファシリテーター
冨永良史
 発創する会議術 コメント(0)
地方分権改革推進委員会が決める。



地方分権改革推進委員会という
早口言葉のような委員会の勧告をとりまく
地方と国の対立に、考えさせられました。


相手に可能性を見出さない限りは
相手に任せられず、任せなければ育つことはなく
育たなければ世話をしてあげている負担は軽くならず
自己満足だけが続くのではないだろうか。


そんなことを考えたんです。


で、昨日の報道によれば
義務付けのうちの半分、4000項目について
廃止を含む抜本見直しを勧告することに決めた
ということです。


要するに
この委員会は

国がこんなに細かく決めなくても
地方は地方の実情に合わせてやっていける

と言っています。
これに対して、国のお役人は


「基準が全くなくなってサービス水準が
 低下してもいいのか」
(保育所の一人当たり床面積について)


と、反論しています。



このやりとりの中で
「人の可能性」についての考え方が
くっきりとわかれていることが感じられます。


委員会は
「任せればできる」
と、可能性を見出しています。


国は
「心配だから任せない」
と、可能性に否定的です。


これは、おそらく、すべてを統括する国と
実情に合わせて現場対応する地方という
立場の違いが反映された考え方の違いだろうと思います。
立場が生み出した価値観のようなものでしょう。


一方で、このやりとりには
大きく欠落している視点があるようにも見えます。


国はどこへ向かうべきなのか?


を考慮された上での議論なのでしょうか。。。
何を地方に義務付け、何を任せるのか?は

これから国がどこへ向かうべきなのか?
その中で、国と地方はどのような役割分担をすべきなのか?

という順序でしか議論することができないはずです。
それなのに、役割分担の話ばかりが前面に出てきています。



そういえば
定額給付金の地方丸投げの時にも
よく似たことが起きていました。


目的を共有せずに
給付制限の権限だけを地方に与えましたが

与えるのか、与えないのかの違いはあっても
目的が共有されていない議論という点では同じです。



「決める」とは
共有した土台の上に
何かを築くことです。


相手に可能性を見出せるかどうかは
自分と相手が、どこへ向かっていくのかという土台を
共有できるかどうかにかかっているように思えます。


ファシリテーター
冨永良史
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両極端をつなげる。


ルーティーンワークと
クリエイティブワーク。
ぜんぜん違って両極端。


ルーティーンワークにげんなりしたら
その仕事の中にクリエイティビティを見出すと
なんだか楽しくなります。


小学4年生の頃
図書委員をしてたら
居残り仕事がありました。

30冊くらいの全集が
順序バラバラで本棚に返却されてて
それを1巻から30巻までキチンと並べるんです。

単純作業が超苦手な僕は
先のことを考えるだけで、うんざり。。。
5冊くらい並べて、手が止まりました。。。

で、ぼぉぉ~っとしてまして
ふっと思いつきました。

あぁ、10巻まで、20巻まで、30巻まで
とにかく分けてしまって
それから10冊の中の順序を変えれば良いのか!
と、ひらめきました。

なんとも、たいしたことないヒラメキですが
小学4年生で、かなりドンくさかった僕には
今でも覚えているくらいに、イノベーションだったんです(笑)

気の遠くなるルーティンを3つに分割することで
見通しの明るい作業に変えたという
そのイノベーションに、すっかり気を良くした僕は
それからしばらく、苦手なはずの仕事に没頭したのでした。。。


今、振り返ると
与えられた仕事を黙々とするのではなくて
自分で、手順を開発したことが、嬉しかったんですね。


ルーティーンの中に
クリエイティビティを見出す
僕の原体験です。ちょっとささやかすぎですが。。。



逆もアリなはずです。


クリエイティブワークは
ヒラメキがいつ降臨するのかわからず
時だけが過ぎていくばかりで、ヤキモキ、焦ります。


ある小説家は
こんな時鉛筆を削る。
と、どこかで読んだことがあります。


僕はワークショップの企画に行き詰まると
本棚の整理を始めます。

今の企画に関係ありそうな本とか
ちょっとひっかかる本とかを一箇所に集めます。
壁全面が本棚なので、けっこう手間な肉体労働です。

そうこうしている内に
本のタイトルが、脳みそを刺激して
ヒラメキがやってくることがあります。


それでもダメなら
今、行き詰まっている課題をできるだけ細分化して
疑問文の形で列挙していきます。
答え出なくても、とにかく疑問文をたくさん書き出して
机の前のボードに貼ります。

で、ぼぉ~っと眺めていると
あぁ、そういうことか、と
なぜかアタマが回り始めることがあります。


クリエイティブワークに
ルーティーンを見出すと
ヤキモキしている時間を少なくして
前進できるという例になってるでしょうか。。。



以上のような
ぶつぶつ呟いている記事は
ルーティーンなのかクリエイティブなのか
なんだかわからないのが、悩ましい夜です。


ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(2)
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