発創アリ。

2008 11
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裁判員に聴く。

来年5月の裁判員制度スタートに向けて
今日から候補者通知が発送されているようです。


候補者に当選する運を
年末宝くじに使いたいのは山々ですが
民主主義のこの新しい展開に
是非とも参加してみたい好奇心も膨らんでいます。


この制度の趣旨を

法律によって人を裁く判断の中に
専門家だけでなく、市民を交えて
より市民感覚に近い判断をする

と理解しています。


この制度の是非には、かなりの議論があって
法律のプロの方々が大反対をされていたりもするようです。


僕は
司法制度だけではなく
民主主義のあり方も視野にいれた
大掛かりな実験(試行錯誤の始まり)だと捉えています。


難解な文言で煙に巻かれるような裁判が
市民の目線まで開かれてくるのは
大きな進歩につながるでしょう。

閉ざされた場での専門家の発想は
どうしても偏りや硬直化を避けられませんし

専門家に任せきりの裁判では
僕達、市民に倫理観が深まる機会が
失われている気がするからです。

人によって作られた法律によって人を裁くということや
利害の当時者が他人に判断を委ねるということが

結局のところ、何を意味するのか
法治国家に暮らしながら、ほとんど考えることがないからです。



あだ討ちへのシンパシーは
数多くの時代劇に描かれているように
誰しも持つものだと思いますが

それを裁判はどのように乗り越えうるのか
わからないどころか、考えることすらないのが現状だからです。


以上の点において
この制度の意義をとても大きく感じます。


一方で、この制度のイチバンの難所は

聴けるか?

ということでしょう。


専門家が素人の意見を
専門知識に邪魔されずに聴けるのか?
「法律のことを知らない素人にわかるのか?」
というフィルターを持たずに聴けるのか?

最終的には自分の専門知識を武器に
影響力を無意識のウチにも行使してしまわないか?


素人が専門家の意見を
「専門家の言うことにはかなわない」とか
「彼らは生活のことをわかっていない」
というフィルターを持たずに聴けるのか?

最終的には自分の生活感覚を主張するだけで
対話にならない恐れはないのか?

立場や視点の違いを活かしあった対話は可能なのか?


ということが
この制度の生命線でしょう。


僕達の生活世界に目を向けると、残念なことに

「知る者」と「知らざる者」
の間の壁が越えられないせいで

お互いの違いを認め合えない
排他的な会話しかできないせいで

組織や社会の生産性が
著しく疎外されていることは

政治でも企業経営でも
否定しえない現実です。


ですから、この制度が
システム的な解決によって
または、参加する僕達の心的な成長によって
この超え難い壁を越えていけるかどうかは
司法制度の進化にとどまらず

社会の対話のあり方
つまりは民主主義の進化に
関わっていくと思います。


この大掛かりな民主主義の実験が
絶えざる試行錯誤の始まりであって
制度形骸化への道でないことを祈りつつ

ちょっとだけ
候補者への当選を祈っています。


ファシリテーター
冨永良史


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 出来事・日記 コメント(0)
そう言えば連載中。

こちらでは
ご紹介してなかったかもしれませんので
あらためて、ご紹介を。


ふくい産業支援センターというところから
県内の事業所に無料配布されている
「フロム」という情報誌がありまして。


そこに隔月で

「組織のチカラを引き出す!
 会議を活性化するファシリテーションの基礎」

という連載をさせていただいております。
7月から始まりまして、9月、11月と3回を終え
現在、1月号に向けて4回目の記事を執筆中です。


ネットからもPDFでご覧いただけますので
よろしかったらどうぞ→フロムのページ


タイトルはこんな感じ。。。

第1回・・・3人寄れば文殊の知恵って本当でしょうか?
第2回・・・会議は芸術だ!デザインだ!
第3回・・・会議は全身運動だ!アタマとカラダの使い方?


ファシリテーションのスキルというよりは
基本的な考え方を紹介しています。


ファシリテーションでも会計学でもマーケティングでも
スキルに囚われると、本質を見失うと思っています。

その学問、その技術が
志している方向性、ビジョン、基本的な考え方を
しっかりと押えれば、スキルは、応用自在というか
自分で開発するくらいの気概があった方が
身につくと思います。


細かなスキルを囚われる前に
それが何を展望したものなのか?を理解したり
そのスキルを成り立たせている原理を理解することは
スキル習得の何倍もの時間をかける価値があるはずです。



というわけで
原稿の締切りが迫る中
悪あがきを続けている
今日この頃です。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(2)
レッドクリフを観る。



ジョン・ウー監督「レッドクリフ」を
映画館で観てきました。



戦場に鳴り響く太鼓
たなびく旗
突き刺さる槍
駆け抜ける馬
宮中に張りつめる緊迫
流れる大河の静寂



三国志のストーリーも
英雄達の活躍も素晴らしいけれど


イチバン堪能したのは
「臨場感」でした。
その場に居合わせる感覚でした。


当たり前のことですが
映画館で観るレッドクリフは

自分の何十倍もの大画面に引き込まれ
つんざく大音響と、その反動の静寂があり
早送りも巻き戻しもCMもなく
DVDのように持ち運べません。


始まったら、終わるまで
動かしえない、コントロールできない
その場、その時だけの体験。

それを見ず知らずの
たまたま居合わせた観客と共有する。



これは
テレビとはまったく異なる次元にある
エンターテイメント体験だと思います。


どんなにテレビが進化しても
どんなにDVDの画質が向上しても
この体験は、映画館にしかない。



その唯一性に痺れたレッドクリフ体験でした。
映画館で観るにふさわしい映画だと思います。


来春のパート2が
とても楽しみです。


それまでに三国志、読破しないと。。。




ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(1)
非合理的に意志決定する。




温泉に泊まり込んで
女子大生の皆さんと
チームの意志決定について
考える週末を過ごしていました。


保育士志望の短大生が対象の
宿泊研修です。テーマは「共生」。


大学の先生方とのコラボレーション企画で
昨年から参加させていただいてます。


僕の担当は去年と同じで
チームビルディングとコンセンサスです。

去年は、どちらかというと
ちゃんと意見を比較して、論理的に判断する
合理的意志決定に取り組みました。


今年は、「自在に」発想して、「勢いで」決める。
という方向にシフトしてみました。


自分のポスターを作ったり
それをコラージュしてチームのポスターを作ったり
CMを作ったり。


正解がない、優劣が主観に委ねられる課題を通じて
「なんでもあり」の意志決定に取り組みました。

去年が合理的意志決定なら
今年は「非合理的意志決定」です。


ついつい「マジメに考えすぎて」煮詰まってしまう時には

「みんなで自由に、楽しんで考えることが大事。
 できる、できないは、重要ではないから。まず、やってみよう。」

と、合理性の枠から自由になれるように
後押ししました。


メンバーが違うので単純比較はできませんが
昨年よりも今回の方が
「伸びやかさ、イキイキ度合い」が上昇したように
感じられました。



多分、僕達は、合理的意志決定ばかりを求められると
思考力、発想力、創造力が、「凝固」してしまうのではないか。
そんなことを感じていました。


凝固とは・・・
本来、柔らかくて、自在に変化できる能力があるのに
小さく、特定の形に、固まってしまうことです。


ビジネス社会では特に
合理的意志決定が重要で
それを、いかに速く正確にできるかが
重要な武器になります。


が、しかし。
合理的意志決定を磨くために
そればかりを繰り返す毎日からは
さほど強力な意志決定能力は生れず

おそらく、逆に。
非合理的意志決定の
「より道」を交えた日常を送っている方が
「勢い」と「柔軟性」と「正確さ」をあわせもった
強力な武器を手に入れられるのではないか。
そう、思います。


カチカチの構造は
実は脆く

遊びのある、ゆるい構造は
実は堅牢です。



そんなことを考えた
女子大生達との週末でした。


それにしても
先週は忙しすぎました。

東京出張を含めて
ワークショップ、打合せの連打、連打。。。

脳みそがカチカチになってしまったので
今日は、ご褒美に、映画、いってきます。
レッドクリフ、楽しみです。



ファシリテーター
冨永良史
 発創する組織風土 コメント(2)
1分でわからない成功法則。





東京に出張すると
必ず、大きな書店をハシゴします。
荷物になるから、買い物はしないのですが


今、売り出し中の本を
「一挙に」視野に入れられるので
大規模書店に行くんです。


ネットショップで
いくらでも買えますが
一挙に視覚認識するという点では
書店がイチバンです。


オフィス街の書店だからでしょうか
入り口近くには、ビジネス書がレイアウトされてることが
多いようでした。


目立つキーワードには傾向があります。


「わかりやすい」
「誰でもできる」
「3分でわかる」
「1分でできる」
「ルール」
「法則」


こんな感じです。
さすがに競争の激しいビジネス書です。
思わずレジに持っていきたくなる書名がたくさんです。


パラパラと立ち読みしても
なるほどなぁ、うまく表現するよなぁ。。。
と感心し、引き込まれるものも少なくありません。


でも、ふと我に帰って思うんです。

「1分でわかる成功法則」というノウハウによって
成功するわけではなく

1分でわかる成功法則を導き出す
思考力と努力によって成功してるんだよな。。と。


おそらく、ここは
かなり大きな境目です。
多分、間違いない。


1分でわかる成功法則を
ついつい手に取ってしまうのと
それを自分で導き出すのとは
ぜんぜん違う思考スタイルで

その思考スタイルの差こそが
成果の分かれ目です。



ということは
色んなハウツーに触れることが必要なのではなく
それを抽出できるだけの豊富な経験をした方が良い
ということになります。


ので
最近は、小説や歴史書に触れるようにしてます。




ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
国会が延びる。



早く解散して
麻生政権の是非を問いたい民主党。


補正予算案の提出を先延ばしして
政権浮上のきっかけを得たい自民党。


補正予算を出さないと参院は審議拒否。

審議拒否するなら会期延長。




プロの政治家のやりとりに対して
ひと言だけ伝えたいことがあります。


「こっちを向いて話してください。」



今の自民党と民主党のやりとりは
お互いがお互いの方を向いて話しているだけで
国民によって選ばれた主権の代行者だという自覚が見えません。



国会は、英語でparliament。
語源は、parler(話す)にあります。
政治について話し合う場所です。
だから、話し合って欲しいのですが。。。
それが、僕たちに選ばれた政治家としての最低限の務めのはずです。



民主党は
会期延長しようとする麻生政権を
「経済政策を優先すると言っていたのに
 予算成立を先延ばしするのは言行不一致だ」
と批判します。


それは、おそらく反論の難しい正しい指摘でしょう。
しかし、参院での審議拒否する民主党の姿勢は
主権の代行者としての責任を果たしていないように思えます。


衆議院に対して参議院があるのは

・より民意を反映しやすくするため
・衆議院の第一党の横暴を批判、修正するため
・衆議院が機能しなくなったときの緊急対応のため


という理由だったと記憶していますが
審議拒否は、このいずれの点も放棄しているのではないでしょうか。
今、最大、最重要の民意は、おそらく、政治を前に進め
試行錯誤しながら、とにかく危機を解決していくことであり
いかなる理由があっても、止めることではないと思います。




世の中の空気が冷たく痛々しいのは
急激に冬型の気圧配置になったせいだけでは
もちろんないでしょう。


世界を覆う経済危機の影響は
日常の生活の中に、入り込み始め
少しずつ、町の景色と表情を曇らせています。


厳しい冬を越えるには
生命体としての活力が必要です。
日本の国会に、その活力はあるのでしょうか。。。



会期延長の原因となっている
自民党と民主党の対立には
活力も創造性も感じられません。


こんな対立を見ていると
「本当に政党が必要だろうか?」
「政党の中で、個人の意見の多様性は活かされるのか?」
という疑問が抗いようもなく浮かんできます。


そういえば、そもそも参議院とは政党政治の場を目指したものではなく
衆院とは異なる選挙システムから選ばれることによって
良識の府をめざしたもののはず。


今は、衆院と参院の区別がつきません。
どっちも、むなしい政党政治を繰り返すばかり。


せめて参院だけでも
政党なしにするという実験をしてみてはどうでしょうか。

WEB選挙にして
誰でも、どこからでも立候補、投票できるようにするとか。。。


政治のやり方
民主主義の合意形成の方法を
進歩、革新させる必要は、どうしてもあると
たいそうなことを、小さな脳みそで、でも切実に感じています。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
理想が微笑みながら虐待する。




NHKスペシャル
「微笑と虐待~証言 アブグレイブ刑務所事件~」


受けとめようのない重い感情が生起するのを
避けられないまま、見入っていました。

目を背けたいのですが、どうしてもできず
客観的で合理的に判断したいのですが
生起する感情は、粘ついて、次々に形を変え
明確な像を結ぶことがなく、もてあましました。


アブグレイブ刑務所事件とは
2003年、イラク戦争の際にアブグレイブ刑務所で
アメリカ兵によるイラク人捕虜への虐待行為が
明るみに出た事件です。


非道な虐待行為を前に微笑む女性兵士の写真が
世界中に報道され、その残虐性が非難を浴びました。


昨夜の番組では、その事件の背景が
つぶさに検証されていました。


軍法会議で断じられたのは
虐待に直接関わった7人の兵士だけで
上官はひとりとして罪に問われていないこと。

戦地という非日常の場では
虐待行為は日常であったこと。

虐待を内部告発した兵士は
裏切り者扱いされ、郷里を失ったこと。

虐待の前で微笑んだ女性兵士が
貧しい生い立ちで、学費を稼ぐために入隊したこと。

捕虜への尋問が、何の訓練も受けていない兵士たちに
委ねられていたこと。

尋問についての指揮系統が複数存在し
知識のない兵士たちは、混乱していたこと。



これらの事実を前に
「その時、彼らはどうすれば良かったのか」
を安易に答えることは僕にはできませんし
「だから暴力は、戦争は絶対にダメなんだ」
と正義を繰り返すことにも、はばかりを覚えます。


色々な「分析」は可能です。


社会的弱者が軍に居場所を持ち
知識もないまま狂気に巻きこまれた。

内部告発という「正義」は
正義の国を標榜するアメリカでも
結局、受け入れられない「建前」である。

戦争の真実は
権力によって明るみにでることを閉ざされている。


だけど、このような分析で
状況を整理することが、正しいようにも思えません。


なぜなら。。。
僕が思っているのは、おそらく。。。


虐待した兵士達や
虐待を日常化した戦地という狂気を
絶対悪として排除する思考は

実は
民主主義と言う理想のもとに
イラクに戦争を仕掛けたアメリカの思考と
通じているということです。


誰もが持つ、弱さ、狡さ、残虐さに目を向けずに
ただただ純粋な理想だけを掲げることは
幼稚な暴力と同根だということです。



高邁な理想は
常に高邁な精神によって支えられるのではなく
自己正当化と、簡単にすりかわってしまう気がします。


そう言えば、アメリカの独立宣言は
1976年7月4日、このように高らかに謳っています。


「われわれは、自明の真理として
 すべての人は平等に造られ、造物主によって一定の
 譲ることのできない権利を与えられ
 その中に、生命、自由および幸福の権利が含まれていることを信ずる」



疑うことのできない、高貴な宣言ですが
この理想を守り、実現するために、たくさんの人が死んでいることは
僕にとっては、簡単には整理できない事実です。


ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
市場を規制する。



メディアに「市場」「金融」が
登場する頻度が、急上昇して
ヒステリックに連呼されています。


僕は、経済アレルギーというか食わず嫌いなので
本当は知らんぷりしたいのですが

今の緊密化した世界の中では
あらゆる分野の出来事が、いつの間にか自分の生活を
根底から揺さぶるという仕掛けになっていることは
認めざるをえないわけで

そうなると、こりゃ、ちゃんと勉強しないとダメかな。。。
と勉強嫌いにムチ打たざるを得なくなってきてます。


というわけで
「金融、市場」というキーワードでフィルタリングされる
あらゆる報道を片っ端から「読み流す」ようにしてみました。

膨大な英語を毎日聞き流しているうちに
英語ができるようになる。という理屈の応用編ですが
はたして、効果あるでしょうか。。。。



ざっと読んでみると、今日現在で一番の頻出ワードは
「規制、監督」のようです。


金融危機を招いたのは
市場に対する規制・監督が機能していなかったからだ。
だから、再発防止のためには、規制・監督を強化しよう。


という論理になっています。
フムフムなるほど。。。と思って読んでいたのですが
なんだか、結局、腑に落ちないところがあります。


規制・監督強化の目的は
金融危機の再発防止。。。


なんとなくスジが通っていますが
何も言ってないのと同じのような気もします。


規制・監督というのは
「ある行為を許さない」ということで
裏を返せば「それ以外の行為は認める。推奨する」ということです。


つまり、規制・監督強化によって
市場は、ある方向への動きを後押しされるはずです。


でも、どの報道を読んでも

規制・監督強化によって
これからの金融市場をどの方向へ導くのか?
そもそも、金融によってどんな生活や文化を創るべきなのか?
そのために、「何を」規制・監督するのか?

といったことが、わからなくて、困っています。



手続きが煩雑になるばかりで
自分たちがどこに向かっているのか忘れてしまうという
お役所病、大企業病に似ているようで

コレが僕の不勉強に由来するものであることを祈りつつ
また、金融報道の猛勉強に勤しみたいと思います。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
定額給付金を委ねる。




未曾有の経済危機を乗り越えるための
定額給付金。


いっぱい稼ぐ人にはいらないだろう
無制限に支給すると「ばらまき」と批判されるだろう

という思惑で所得制限が検討されてましたが
最終的には、制限するかどうかは
各自治体の実情に基づいた判断に「委ねる」
ということになりました。


これが、「都合の悪いとこだけ丸投げ」と
批判されているわけです。


麻生総理は
「地方分権なんだからいいじゃない」
と言っています。

あくまでも「委ねている」「委譲している」
というわけです。

自治体首長は「丸投げ」だと言っています。



このやりとりを読んでいて
「委ねる」と「丸投げ」の境目はどこか?
ということを考えました。


どうやら地方の実情とは
現実問題として
「所得制限を設けるだけの
 煩雑な事務作業に耐えられるか?」
ということになりそうです。


これは、定額給付金の目的に照らし合わせて
ふさわしい判断基準なのか、かなり疑問です。

そもそも
定額給付金は何のためにするんでしたっけ?
その目的に応じて実情を判断するのが
「実情に応じて」の意味のはずですが。。。


目的と実情がズレテいるようです。


さらに、目的が揺らいでいるせいか
行政の仕組みのせいか僕にはわかりませんが

「所得制限をする/しない」の判断が
その判断の主体である自治体に
どんな「効用」を与えるのかが見えません。


ある判断を委ねられたら
もし、その判断を的確に行なったら
その判断主体には、具体的な効用が得られなければ
積極的に判断しようとはせず
安易な道(手間がかからない方向)へと流れるでしょう。


整理すると
誰かに何かを委ねるとは


その行為の目的と
判断によって得られる効用を
具体的に共有した上で
権限を与えること。


であり
このような条件が整った場合にのみ
その権限を目的に対して忠実、積極的に行使しようという
動機付けが生じる。


ということだと思います。

つまり、今回の件は、やはり
地方分権だとか、委譲だとか、委ねる
という概念には当てはまらないということになりす。


丸投げは
投げる側の求心力を落とし
投げられる側の意欲を落とします。


委ねると
求心力と意欲は上がります。


似ている行為ですが
結末は大違いです。


ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
田母神俊雄が問う。



「離任式もできなくて
 わたしは最後にそんなに悪いことをしたのか」



田母神俊雄 前航空幕僚長は
問いかけました。


田母神氏の論文
「日本は侵略国家だったのか」が
幕僚長の暴走として糾弾されています。


学校で歴史を勉強していて
僕が、ずっと疑問に思っていたことと関係している気がして
何度か彼の論文を読み返してみました。


「もし日本が侵略国家であったというのならば
 当時の列強といわれる国で
 侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。」



この一文。
僕が高校の時からひっかかっていた疑問と同じなんです。


戦争して、ひどい目にあわせたら
謝らなきゃいけないのはわかるけど
何で、日本ばっかり謝るんだろう?

アメリカに移民した人たちは
インディアンに謝らなくていいのだろうか?
移民にとってのフロンティアは
ネイティブアメリカンにとっては
かけがえのない暮らしの場だったのに。。。


スペインやポルトガルの人たちは
マヤやインカやアステカの人たちに
謝らなくてもいいのだろうか?


オーストラリアのアボリジニには
謝らなくてもいいのだろうか?


不自然に直線的な国境線でズタズタに分断された挙句
内戦ばかり繰り返すハメになったアフリカの人たちに
謝らなくていいのだろうか?


イチャモンのような戦争をきっかけに
植民地にされた中国やインドの人たちに
謝らなくていいのだろうか?



ずっと不思議に思っています。

欧米の国々が現代の文明を引っ張ってきたのは確かですが
サミットとかで、かの国々のトップ達が誇りに満ちた表情で
威風堂々と会話しているのを見ると
少なからず違和感を持ちます。



田母神氏の問いかけは
幕僚長としては、不適切だったかもしれません。

が、しかし
あらゆる価値が相対化し
国と国、民族と民族が、その近接性を増している現在において
どうしても問い直さなければならない
「腫れ物のような問い」ではないでしょうか。


平和な世の中に見えても
それでもやはり、国のため、家族のために
命を賭け、人の命をうばう場所に立つ使命を持つ人がいます。
誇りを持たずして、卑屈になっていては、そんな行為はできません。
誇りの源を問い直さなければなりません。


世界中が緊密につながってきたからこそ
お互いがどのような歴史のもとに、今の関係を築いているのかを
知り合う必要が出てきています。
殺戮の歴史にフタをして向きあうのは都合がよすぎるでしょう。
今を生きる僕たちに罪はないけれど
その歴史の上に生かされているのは確かですから。



田母神氏を糾弾するばかりでは
何も生まれないように思います。


命を賭してもいい誇りの源とは?
他の国々の人々とわかりあえる誇りの持ち方とは?


置き去りにされてほしくない問いです。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
小学1年生と学ぶ。




ファシリテーションという
「動詞」を仕事にしていると
色々な「目的語」が依頼されてきます。


僕の仕事は
「何を」ファシリテーションするか?
というところが「変数」になっているからです。
「変数」の「変域」は「コミュニケーションすべて」です。

会議も組織も授業もプロジェクトも
ファシリテーションします。


というわけで昨日は
小学1年生の算数の授業をファシリテーションする
というお題をいただきまして

地元の小学校で1年生向けに
「算数パズル」という授業をしてきました。



僕だって一応
小学校から大学受験までずっと
算数、数学を勉強してきて、得意な方でしたけど。。。


相手が小学1年生というのは
めちゃ難しかったです。


どんな言葉なら通じるんだろう?
そもそも、算数ってなんだろう?

1年生の真っ白な脳みそに
何をどうやって問いかけたら
「さんすう」がイメージできるのか?


ということから考え直しました。
で、結局、授業のテーマを


アタマとカラダとトモダチと
さんすうをかんじる


ということにしました。
ひとりでじ~っと考える算数でなく
カラダを使って、友達と話し合いながら考えることで
算数のイメージをつかんでもらえればと思ったんです。


45分の授業の中で


色んなところに数がある。
数は数えられる。
数は大小を比べられる。
図形は「辺(まっすぐ)」と「角(とんがり)」がある。


ということを感じてもらいました。

名前の文字数を数えたり
手の暖かさを比べたり
手をつないでサンカクやマシカクをつくったり
抱っこして重さを感じたり
教室いっぱいつかって足し算をしたり



全身でぶつかってくる小学1年生のみんなのパワーに
負けないように、スキンシップいっぱいして、大声出して
がんばったら、ぐったりフラフラ、声が枯れました(笑)


でも、爽快でした。


僕は、どんな科目であっても
ふれいあい、コミュニケーションこそ学びの宝庫だと思っています。
みんなで、膝とオデコを近づけて、一生懸命考えることの
ワクワク感とか、安心感が伝わってくれればいいなぁと
思いながら授業をしていました。



僕が一番、楽しんだのかもしれませんけど。。
深く深く考えさせられたし、エネルギーいっぱいもらったし
すっごい楽しかったです。

1年生のみんな
ありがとう!



ファシリテーター
冨永良史
 発創する教育術 コメント(1)
ゲンパツを知る。





つい先日のこと。
ちょっとしたご縁がありまして
原子力発電所(通称「原発・・・ゲンパツ」)を
丸一日、見学、勉強する機会をいただきました。


ふるさと福井県は
ゲンパツの密集度では
日本一です。

人口の少ない狭い県なのに
13機もあります。



このゲンパツを巡っては
強硬な反対派から、大歓迎の推進派まで
多様な意見があります。

なぜ、両極端の意見が生じるかというと。。

ひとたび事故が生じれば
日本全土どころか地球規模で影響を与えかねない
リスクの大きさと継続性。

化石燃料の枯渇が進行する中で
すでに国内エネルギー需要の半分近くを
原子力発電が占めているという現実的な必需性。

ゲンパツ関連産業が地元に生み出す
雇用をはじめとした経済効果の無視できない巨大さ。

温暖化ガスを排出しないエネルギーであり
地球温暖化を減速しうる可能性がある
クリーンエネルギーとしての期待感。

とは言え、放射性廃棄物の廃棄処分には
危険と不安がつきまとい、膨大な時間を要するため
根本的な解決の道が未明であること。


といった具合に
僕達の生活に直結する
期待と不安、メリットとデメリットが
両極端の形で混在しているがゆえに
反対、賛成の極端な対立が生じているのでしょう。



僕は、日本一のゲンパツ立地県に住みながら
まだまだ原子力発電のことを知らなさすぎると感じた一日でした。


絶対に不要だとも思えないし
どうしても必要だとも確信できません。
おそらく、そのどちらでもないのでしょう。
けれど、それでは現実に進行するエネルギー問題を解決できません。。。


僕達は、知らないものを恐れ、退けます。
今までになかったものを否定し、その可能性を閉ざします。
そうやってリスクを回避して生存してきたとも言えますが
そうやって茹でガエルになる可能性も否定できません。


やはり、どんなことであれ
そこに存在する理由があるわけですから
まずは、ココロを鏡のようにして
あるがままに、理解することから始めなければと思わされました。


知らないままに否定することも
ちょっとかじったくらいで賛成することも
知らないもの同士が対立することも
生産的ではないでしょう。


何かわからないけれど怖い
「ゲンパツ」ではなく

その存在をハッキリと理解した
「原子力発電」に


理解の次元を上げることが必要だと感じました。


そういえば世の中
わけがわからないままに
恐れられていたり否定されていたり対立していたりするものが
多くあります。


「知る」の辞書による定義は・・・


心でとらえる。
(他と区別して)その存在を認め
またはその状況や内容、意味・価値を
こうだとつかむ。


とあります。
「知る」って、簡単じゃないです。



ファシリテーター
冨永良史
 ふるさと福井 コメント(0)
バラク・オバマが超える。




大統領予備選挙が始まった日に
昨夜の光景を予測した人は
どれくらいいたのでしょうか。


「アメリカでは
 すべてが可能であることを疑い
 民主主義の力に疑問を呈する人がまだいるなら
 今夜がその答えだ。」


バラク・オバマ次期アメリカ大統領は
昨夜の勝利演説をこのように切り出しました。

まるで、彼だけは
この夜がくることを確信していたかのような
力強い口調と視線でした。



もし、ブッシュ政権の不人気がなかったら。。。
もし、金融危機がなかったら。。。
もし、マケイン候補が経済のスペシャリストだったら。。。

彼が大統領になれない理由は
いくらでもあげることができたはずです。

しかし、彼は無数の「もし」を乗り越えて
大統領に昇りつめました。



彼は黒人の父と白人の母の間に生まれた
史上初の有色人種の大統領です。

人種の壁を破ったと評されています。
むしろ「超えた」と表現すべきだと、僕は感じています。



彼には「超える」という言葉が
とても似合っています。


肌の色も政治信条も貧富も
あらゆる「違い」を理解し合い、それを超えて
わたしたちの国を築こうと呼びかける彼は

何かを破ったり壊したりするのではなく
そのはるか高見に、今までになかった理想を灯し
そこへ向けて、一緒に歩もうといざなっているようでもあります。


ブッシュ大統領には
そしておそらくマケイン候補にも
「強いアメリカ」「唯一の正しさ」「正しい者と間違った者」
という価値観があります。

それはとても力強く、頼りがいを感じるのですが
その信条一本槍で突き進めるには、世界が多様化複雑化しすぎています。

あらゆる違いに注目し
対話を重ねながら協調の道を探すオバマ氏の方が
今の世界には待望されているリーダーではないでしょうか。


違う人を排除するのではなく
対話し、理解し、ともに歩む同志に変えていく。
そんな姿勢なくして、この難局は乗り越えられないのではないでしょうか。




白人のアメリカも、黒人のアメリカも
赤いアメリカも、青いアメリカもなく
あるのは、私達のアメリカ合衆国だ。



政治が
勝ち負けを問う争いではなく
違いを理解し活かしあいながら未来を創る
共創へと変わって行く、その記念の夜になって欲しい。。。


そんな思いで
バラク・オバマの演説を
何度も何度も読み返しています。



ファシリテーター
冨永良史
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