発創アリ。

2008 10
09 ← 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 → 11
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 スポンサー広告 コメント(-)
安藤忠雄を感じる。




東京出張ついでに

安藤忠雄 建築展[挑戦-原点から-]
を観てきました。



彼の作品は
現地で、作品集で、メディアで
色々目にしてきましたが


今回、この建築展をどうしても覗きたかったのは
「住吉の長屋」の原寸大模型が設置されていることを
知っていたからです。


もちろん、作品集その他で
住吉の長屋は、その内部も含めて何度も目にしていました。

でも、彼の大規模建築物のほとんどが
実際に現場に触れることができるのに対して

「住吉の長屋」は個人の住居なので
現場を感じる機会がないんです。


だから、たとえ模型であっても
原寸大で、中に入って、安藤忠雄の空間を感じられるなら
是非、是非、行きたいと思ったんです。


実際に目にしたことのないその空間は
僕にとって、あまりにも非現実的で
「ありえないだろ」という思いがありました。


2間×4間の14坪、2階建て。
そんなに狭いのに、ど真ん中に中庭。
雨の日は傘をささないとトイレにいけない。。。


そんな芸術作品みたいな住居が、なんで許されているんだろう。
まるで牢獄みたいな雰囲気なのではないだろうか。


いろんな思いを抱きながら、模型の玄関をくぐったんです。



。。。広かったです。
正確には、拡がっていました。


奥に向けて、空に向けて
気持ちが広がっていくのを感じる空間でした。


どんな空間に身を置くかによって
こんなにも気持ちが変わるんだなぁ
と思わされました。




こういう拡がりを感じる経験を
たくさん積んでいくことは
自分の仕事を磨く上で
とても大切なことのように感じています。


家に帰った今でも
あの玄関をくぐった直後に感じた
拡がりの感覚が、こびりついて離れないんです。




ファシリテーター
冨永良史
スポンサーサイト
 出来事・日記 コメント(0)
高橋尚子が退く。



大好きで大好きでたまらない
高橋尚子選手が引退してしまいました。


シドニーオリンピックで金メダルに輝き
翌年、世界最高記録をマークし
これからどこまで強くなるんだろうと
ワクワクしながら彼女のことを見つめていました。


故障を繰り返していたときも
いつかきっと、必ず。。。と思って応援してました。
そしたら、東京国際でバッチリ復活してくれて
嬉しかったなぁ。。。

やっぱり高橋選手だ!やってくれた!
ってジ~ンとしたのを覚えています。



高橋選手は
いつもいつも笑顔でした。

その表情や発言や行動のひとつひとつが
応援してくれるみんなへの気配りに溢れているようでした。

そして何より
いつでも楽しそうに走っていました。



本当は
骨折したり手術したり不調になったり
プロスポーツ選手として辛いことが一杯あったはずです。


笑顔を絶やさない彼女の奥底に
プロとしての強烈な自負心を感じていました。


そんな彼女が今シーズンの目標に掲げた
東京、福岡、名古屋の3大会連続出場。。。



「あきらめなければ、夢はきっとかなう」


が口癖の高橋選手でも
いくらなんでも。。。もう36歳だし。。
と思っていました。だけど、今度も、ひょっとしたら。。。


だけど。。。「ひょっとしたら」は起こらないまま
ひとつの大会を迎えることもなく
高橋選手は引退してしまいました。


彼女のプロ意識に魅せられていたからこそ
その決断の重さや辛さが、ずっしりと伝わってきます。


決して華々しいゴールではなかったけれど
高橋選手が、最後の最後に魅せてくれた
プロとしての信念のゴールに拍手を贈りたいと思います。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
橋下知事が提起する。



「橋下知事、体罰容認?」


こんな報道がなされています。
昨日、大阪府で行なわれた
府民らと知事が教育問題を話し合う討論会
においての発言をめぐる報道です。


現在の社会的コンセンサスでは
「体罰はしてはいけないこと」です。

よって、討論会で
「口で言って聞かなければ
 手を出さなきゃしょうがない」
と発言すれば

「禁じられているはずの体罰を知事が容認するのか」

という切り口の報道になるわけです。
しかし、この発言とその報道には
「僕達が、いかに判断をサボっているか」
がくっきりと現われているように思えます。


橋下知事が、討論会終了後に
「体罰容認では?」との記者からの質問に
「体罰の定義を出してもらわないと」と答えているように


「体罰はダメだ」とか「体罰容認」とか言っても
実は、何にも言ってないのと、同じだということに
僕達は、気づかなくなっています。


体罰とは、いったい
具体的にどういう行為なのか?


を明らかにし、かつ社会的に共有しない限りは
「体罰は是か非か」などという議論は成り立ちません。


しかしながら、僕達は
ある特徴的な暴力行為と
そこから連想される抽象的な概念を
「体罰」と「ラベリング」し
その周辺の概念すべてを「体罰」で片付けてしまいます。



そうすると何が起きるかと言うと


「体罰」という正体不明のラベルを貼られた行為すべては
その目的や意図に関わらず、「絶対的な禁止行為」になってしまいます。


本来、手段は、まず第一にその目的によって評価されるものです。
したがって、体罰(と推測される行為)も含め、あらゆる教育手段は
その背後にある目的によって、その正当性を評価されるべきでしょう。


だからこそ、橋下知事は
「どこまで教育と認めるかは
 家庭、地域と合意形成することが第一」
と発言しているわけです。



こういう経緯のいっさいが軽視され
「容認」か「禁止」か、という論点が展開されるのは
マスコミだけではなく、僕達の思考の「悪癖」みたいなものだと思います。


ひとつひとつの行為を評価・判断している手間を省略して
類似するあらゆる行為に「ラベル」を貼って
それらを一括して評価・判断するということを
マスコミの影響もあって、僕達は簡単に自分に許してしまいます。


本来、あらゆる行為は個別的であり
そんな簡単にラベリングも評価もできないはずです。

だからといって
すべてを個別的に判断しているわけにはいかないから
ラベリングという思考スタイルを使うわけですが


少なくとも、僕達が忘れてはならないのは
「判断をさぼるのが、僕達の習性である」ということ、すなわち
「僕達は、考えているつもりで、実は、機械的に処理しているだけ」
ということが、極めて日常的であるということです。


だからこそ
橋下知事のような、異論をぶつけられると
とってもチクチクと刺激を受けて、否定したくなるわけです。


彼の発言には、否定的なコンセンサスが容易に生まれるのは
そのせいだろうと思います。


彼は、「ただ、提起してるだけ」という点も見逃してはなりません。
主張と提起の区別ができずに、すぐに自分を否定されたと思ってしまうのも
僕達の弱点のようです。


ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
古畑任三郎を推理する。




午前中は
ゆとりがあったので
録画しておいた

「警部補 古畑任三郎」

を観てました。


いわずと知れた
田村正和さんが扮する
超絶的な頭脳を持つ警部補、古畑任三郎が活躍する刑事もの。

僕は、このドラマが大好きで
再放送があるたびに、何度でも観てます。


で、観るたびに思っていたのが

「なんで、古畑任三郎は天才的に見えるのか?」

ということです。


難しい事件をスラスラ解決するから
天才的に見えるのですが

そもそも役柄として、どういう特徴をだしているから
言い換えると、どのような考え方をする人として描いているから
天才的に見えるのか?

同僚の凡庸な刑事、時にはキレモノと思われる刑事にさえ
解きほぐせない事件のカラクリを
どのようなモノの見方、考え方をすることで解決へと導くのか?

他の登場人物との、どんな差異によって
彼は天才として印象付けられるのか?


ということを考えていました。



今日、寝ぼけマナコでぼぉ~っと
ドラマを楽しんでいたら、なんとなくわかりました。
やっぱり、そうでした。

天才は、同じようなパターンで描かれるようです。


以前、「容疑者Xの献身」の主人公
「天才物理学者、湯川学」についての記事
とても似ています


古畑任三郎も
やっぱり、人の話を「聴いてない」です。

正確に言うと

同僚、部下、そして現場が伝える
動かせない事実だけを受け入れて
それに基づく推論は
いっさい聴いていない。


目の前に生じていることだけを
思い込みを廃して受け入れているから

相手の
騙そうとする意図や
悪意がなくても先入観に犯された視点に
影響を受けずに推理を組み立てるわけです。



これは
あらゆることに当てはまる
「学び」のセオリーだとも思います。


僕達は
先入観や、拙速な推論に邪魔されて
目の前で起きていること「そのもの」を
まっすぐに見つめることが出来ません。


その邪魔者を排除する時間を
意図的に持つことこそ
何よりも効果的な学びと成長の源ではないかと
そんなことを考えました。


実は、昨日、福井県生産性本部で

「学びながら成長するチームは、どう育てるか?」

という、ワークショップのファシリテーター・講師を務めまして
その時の感覚が、ずっとアタマに残っていたから

こんな唐突な考えが浮かんだのかもしれません。


アタマの中は
何が、どうつながっているのか
これから、どうつながっていくのか
摩訶不思議です。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
麻生太郎が語る。




ホテルのバーで
夜の会談をするのが
「安い」と言ったと


麻生太郎さんのことを
非難めかして報道してるのが
チラチラ目につきます。


>景気が悪いのに。
>庶民は辛いのに。
>なんだその態度は。


という意図が透けて見えるような報道です。
なんとも、まぁ、みっともない次元の報道だと思います。



内閣総理大臣が
何事かを考えるのに
「少しでも安いところで」なんて
考え始めたら、国はどうなってしまうんでしょう?


少しでも理想的な環境で考えて欲しい
と思います。


政策と、その実行で責任を示してくれればいいわけですから
ホテルや料亭やバーが高いとか安いとか
そんなことは、報道するに値しないでしょう。



場、空間に対する投資という感覚は
もっともっと大切にするべきだと思います。


どんな場所に身を置くかによって
どんな思考をし、どんな成果が出せるかが
大きく左右されるからです。



内閣総理大臣の
場所に対するお金を節約して

いったい、そのお金を
誰のために使うのでしょうか?



麻生太郎さん以上に責任の重い人は
今、国内にはいないはずです。

その方の意思決定が
私達の将来を左右します。

これ以上の投資先は
ないのではないでしょうか?


それが
「付託する」ということの
意味だと考えます。


付託した相手に
自分と同列の環境に身を置け、と言うんだったら
なんのための付託だか
あまりにも値打ちのないものになってしまうのではないでしょうか?





ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
アインシュタインと語る。




つい最近、仕事場に
新しい仲間を迎えました。


ちょっと年をとってますが
愛嬌があるんです。

いっつも、「べぇ~」って
舌を出して、人をくった表情で
僕を迎えてくれます。



その名を
アルバート・アインシュタインといいます。



37歳の誕生日に
妻が、何を思ったか
アインシュタインのでっかいポスターを
プレゼントしてくれまして
それを部屋に貼り出したんです。



今まで、クリーム色の壁面だったところに
いつも、「べぇ~」のアインシュタインがいます。


その顔を、ぼ~っと眺めてると
なんだか、脳みそがフワフワ、軽やかになってきます。


人の顔を見るっていうだけで
たとえそれがポスターであっても
僕達の脳みそは、色んな働き方をするんですね。


僕は、アインシュタインと
お話してるような気分になります。


グチャグチャに混乱した思考が
ふんわり解きほぐされるような気分になります。
(気分だけですが。。)



人の顔を見る、人と話す、ということは
僕達の思考を、大きく揺さぶることのようです。


もし、しかめっ面ばかりの場所で
ケンカ腰のやりとりばかりの毎日だったら。。


もし、おだやかさと真摯さを滲ませた表情に囲まれて
ヒラメキのキャッチボールができる毎日だったら。。



毎日、誰と、どのように話すかは
時間の豊かさ、創造性に、あまりに大きく影響しています。
成果に対する影響力は
個人の能力と同等、ひょっとしたら、それ以上かもしれません。



ファシリテーター
冨永良史
 発創する組織風土 コメント(0)
道州制を考える。

昨日の「難しかったお仕事」について
反省文を書いてみます。トホホ。。。


昨日、どんなお仕事をしたかといいますと。。。

僕が、アドバイザーを仰せつかっております
福井経済同友会の次世代イノベーション委員会で
第5回の例会としまして


「道州制を考える」


というテーマのもとで、議論をいたしました。
そのファシリテーションを僕が担当したわけです。


プログラムの概略としましては
福井県庁より講師をお迎えして


いったい道州制とはなんなのか?


ということからご解説いただき
その後、講師、会員あいまみえての
フリーディスカッションという流れでした。



経済同友会は県内有数の経営者の皆様の集まりではありますが
道州制について、県庁の方と比べれば、その知識量、理解の深さに
やはり、大きな差があります。


その状態で、議論をしようと思っても
県庁の方に、経営者の方が
質問や意見をぶつけて、それに県庁の方が答える
という図式になります。


「道州制を知る」という趣旨の会なら
こういう展開でも良かったのですが


「道州制を考える」がテーマですから
やはり、異業種の経営のプロと自治のプロ(県庁)という
せっかくのハイブリッドな集団特性を活かして
議論をしたかったわけです。



ひとえに、その原因は
僕の「問いの立て方」とその「順序」にあったと
反省しております。


道州制についての基礎知識を得た上で
「道州制についての疑問、意見」
を募ったわけです。

意見を出しやすいように
問いの幅を広く取ったのですが
ここがミスでした。


そうではなくて
国と地方がなんらかの課題・理想を持っているが故に
その導入が検討されているわけですから
まずそれを共有した上で

「その課題・理想を達するには
 どんな手段が考えられるのか?
 道州制はその手段としてふさわしいのか?」


という
目的共有→手段選定、評価の問いかけ方

または、もっと根本的に
「道州制によって実現しようとしている
 これからの国と地方の関係は
 そもそも、正しいのか?」


という
仮説共有→評価の問いかけ方


にした方が
それぞれ独自の立場から
色んな思い、アイディアを引き出せたと考えています。 


アタマでは、わかっていたのですが
意見を引き出すための「ちょっとした仕掛け」を作り込むのに
気をとられまして、根本的な「問いかけ」をミスりました。


総括すれば
前提知識に大きな差がある場合の
議論の生み出し方を、改めて学ばされました。




以上、とてつもない実感を持って
反省をしております。


若輩者に
学びと反省の場を与えていただいた皆様
ありがとうございます。

これを糧に、必ずや急成長し
お役に立てるファシリテーターになることを誓います。





ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
食糧危機から考える。



NHKスペシャル
「世界同時食糧危機
 ~アメリカ頼みの”食”が破綻する~」


を見てました。



肉、パン、牛乳を食する生活を啓発し
その原料や飼料となる穀物をアメリカが担う。


戦後日本で試された、このシステムが
急激に世界中に浸透し、さらに、投機マネーが食市場にも流入し
今、世界の食糧需給の針はとってもセンシティブに
振れるようになっています。


昨日あった牛乳が
今日、突然、手に入らなくなる
という日は、そう遠くないように感じました。



この危機の
解きほぐしがたい点は。。。


この構図は危機であると同時に
アメリカ農業界の成功でもある
ということだと思います。



ずっと余剰を抱え
安い価格に汲々としてきた農業者たちは
おそらく、今、我が世の春を謳歌しているでしょう。


グローバル社会だろうが
地域社会だろうが

金融資本主義だろうが
ブツブツ交換だろうが


ある主体の圧倒的な成功は
一極依存をもたらし、そこに依存する社会は
非常に大きな不安定要因を抱える

という構造には変わりないでしょう。

違うとすれば
現代は、僕達が極めて緊密にネットワーク化された世界に住むが故に
特定集団の野望が、世界を揺さぶる影響力を容易に持ちうる
という点です。


マイクロソフトやグーグルが覇権を争う
IT業界も同様の構造が見られます。



一般化すれば


有能な個人が個人の成果を追求し、成果を出せば出すほど
その個人が属する集団・社会はリスクを抱える。


ということになるでしょうか。


もちろん
マイクロソフトもグーグルも
トヨタもGEも

自らがこれからの社会で果たすべき使命を
企業市民として描いているでしょう。

が、しかし。おそらく。。。

そのストーリーの中心には
自分自身が置かれているはずです。


自分自身が中心に置かれた将来ビジョンに従って
世界に貢献しても、やはり世界のリスクは変わらないでしょう。


自分の存在の消去を宿命づけるような
そういう使命感こそが必要なのだろうと思います。


あらゆる組織の有能なるリーダーは
自らの存在を消去しうるように
自らの組織をデザインしてくべきなのではないかと

食糧危機を考えながら
思いを拡げた夜でした。


ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(2)
学力テストに思う。



大阪府で橋下知事の強力な意向のもとで
学力テストの市町村別成績が公開されました。


公開されるまで
ずいぶんと綱引があったみたいで。。。


「公開すれば
 市町村の序列化につながる」


これは、正しいようにも思えます。
序列化は、おそらく、誰の中にも既にあはずで
(先入観、偏見というレベルで、確実にあるでしょう)
公開によって、それを強化、正当化する恐れがあるというのが
正しい表現だとは思いますが。。

概ね、気持ちは、理解できます。
一方で、ビシビシの圧力環境にさらされたくないという
教育現場の「逃げ」にも、見えなくないです。



「公開することで
 教育に真剣に向き合ってもらえる」


これは、ビジネス社会では完全な正論です。
あらゆる成果は公開され、競争にさらされ
それによって、淘汰や創造が生じているのが
日常で、ごく当たり前のことです。


しかし、これを「学校教育」の改善に帰結させるなら
それもまた、政治の「逃げ」に見えなくもないです。

地域社会の状態とか家庭環境とか
その地域に住むことでどれだけの希望を感じられるかとか

そういう要因は、学校教育や家庭教育だけでは
なんとも解決しようがないことに思えますから。




僕には、正直言って、よくわかりません。


全国平均を大きく下回る成績をとるということが
何を意味しているのか?

なぜ、自治体によって
こんなにも差が生じるのか?


環境要因というのは
そんなにも大きいのか?

最悪の環境から
志を立てて、ノーベル賞にまで辿り着く人がいます。



当時は志が立てやすい時代だったのか?


そのようにも思えますが
そうでないようにも思えます。



わけがわからない考えを巡らせながら
ふと思いついて、辞書を引きました。


体験・・・自分が実地に経験すること。

経験・・・実際に見たり聴いたり行なったりしながら
     まだしたことがない状態から、したことがある状態にうつること。
     それによって、知識・技能が身につくこと。



体験の定義に「経験」が含まれるのですから
結局、どちらも同じ意味なんですけど
経験の方が、知的に昇華(消化)されている感じを受けます。



他者との比較ありきで、どうしたら点数が上がるのか?
という姿勢では、体験をじっくりとかみしめて経験へと昇華する
学びは生まれないでしょう。


何が悪いのか?どうしたら良くなるのか?を
成績上位も下位も、公然と議論することなしに
成績公開は、「嫌な体験」にすぎず
教育の場に新たな知識を生み出すことはないでしょう。


学びとは
圧力にさらされる必要がありつつも
きわめて個別的なものであり続けなければならない


そのアンビバレントな思いが
僕の現状です。


ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
エジソンに学ぶ。
小学校の頃
自分の誕生日が
有名な人と同じだということを
自慢しあうような、ヘンな流行りがありました。


それで、僕も一生懸命調べたんです。
自分の誕生日に誰が生まれたのかを。。。


江戸川乱歩と徳川吉宗とノーベルでした。


それなりに、有名な人がいてくれて
嬉しかったのですが、一番、心ときめいたのは


エジソンが電球を発明した日
電球に光が灯った日と
僕の誕生日が同じだったことです。


少なくとも、僕が小学生の頃
エジソンの伝記マンガによれば
僕の誕生日と同じ日に電球に光が灯ったことになってました。


後に知るところによれば
実際に電球を発明したのは
別の人だったらしいのですが。。

ま、それは置いておいて。。。


僕は勝手に
エジソンに親近感をずっと抱いていたわけです。


その、エジソンが言ったとか、言わなかったとか
言われている、有名な言葉が
(正確には覚えていませんが。。)


ある実験が100回失敗したことについて


「100通りの失敗方法を学んだ」


と言ったそうです。



僕は、落ち込みそうになったとき
いつも、この言葉を思い出します。

これは、単なる、恐るべきプラス思考ではなく
現実に対する、真摯な姿勢だと思うからです。


成功だとか、失敗だとかは
僕たちの個々の価値観によって区別されるもの。
それにとらわれることなく

ある方法がどんな結果をもたらすのか
それだけを真摯に受け止めることから
成長がもたらされるんだと
思いなおすんです。



価値観から自由になって
今、目の前で、起きていることは
どういうことなのか?


まっすぐな目線を向けたいと
気持ちを新たにさせられる言葉です。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
育む対話。





素敵な女性に囲まれて
お話し、してきました。


しかも100人以上。。。
みなさん経営にたずさわってらっしゃる
ビジネスウーマン。。。



違う意味で
夢心地(笑)


冷や汗の時間を過ごしてまいりました。



福井県商工会議所女性会連合会の
地域研修会にて、講師を務めさせていただきました。


タイトルは
「つながる、響きあう、育む
 ~魅力を活かしあう対話の時間~」



お互いの可能性を信じて
受けとめあう対話をしたらどうなるでしょう?

ということを100名以上の皆様と
一緒に考える講演&ワークショップの時間です。


時間がタイトだったのと
人数が多かったので

いつも即興まかせの僕にしては珍しく
ちゃんと原稿メモらしきものを用意して行きました。


でも。。。
やっぱり、女性のイキイキとしたエネルギーは
素敵に強力でした。


僕の準備なんて、はるかに超えて
いろんなハプニングが起きて
(そう思ってたのは、僕だけですが。。。)
結局、即興まかせの進行になりました(笑)



対話は生ものです。
今、ここで起きることに寄り添うからこそ
想定外の素敵な創造が生まれます。


今日も、まったく予定になかった展開が
最後に待っていました。

それは、ひとりの参加者の方のひらめきを書いたメモに
僕が「ふっ」と気持ちを引きつけられたから生まれた展開でした。


それで、会場が
あぁ、なにかをやり遂げたなぁ、ひとつになったなぁ。
という感覚に包まれて、気持ち良くフィナーレを迎えることができたんです。



対話は
準備するものではない。
今、ここに、寄り添って
相手と共に育んでいくものだ。


ということを
僕の方が、学ばせていただきました。


皆さんのイキイキとした発想力に
僕が触発されて、皆さんと一緒に時間を創っていったんだなぁ
という、嬉しい充実感が残りました。


女性会の皆さん
ありがとうございました。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
体育の日を思う。



今日、10月13日は
体育の日なんですね。。。


2000年からは
ハッピーマンデーということで
連休になりやすいように

10月の第2月曜日が体育の日

になってます。


僕は、1971年生まれですから
29年間は

10月10日が体育の日

だったわけです。



そうすると
第2月曜に変更されてから
わずか8年では
29年というもとの経験が長すぎて


「やっぱり、体育の日は
 10月10日じゃなきゃなぁ~」
「なんかヘンな感じ」


と、あまり根拠のない感慨をいだくわけです。


もっと年上の皆さんは
10月10日が東京オリンピックの開会式の日
日本の高度経済成長とスポーツの祭典の象徴のような日という
確かな根拠をもって、10日に思いを寄せるかもしれません。


でも、僕なんて、それすら知らずに
「やっぱり10日じゃなきゃ。。」てな具合になっちゃってます。



繰り返し、習慣というのは
すごい影響力を持ってます。


たいした根拠がなくて
それを繰り返し経験するだけで
それが当たり前になり
そうなることを望むようになる。


そんな心理的な現象が起きます。




僕達が今
何を求めているのか
何に違和感を感じているのか


その源をよくふりかえってみると


ひょっとして
「いつも必ずそうだったから」とか
「ずっとそうだったのが、急になくなったから」とか


そんな根拠のものが
意外と多く、見つかるのかもしれません。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
「割れ」る日々。



ここしばらく、毎日
「割れ」という言葉がメディアを飛び交っています。


「東証1万円割れ」
「ダウ9000ドル割れ」
「NY原油80ドル割れ」



昨日割れたものが
今日さらに割れる
ということが続いています。



割れる。。。


何か確固としたものが
砕けるようなイメージがあります。


実際、「ここまではないだろう」という一線を
日々、突破しているわけですから
文字通り「割れ」る日々です。



「割れる」には
もうひとつの意味があります。



・・・隠れていたことが明らかになる



という意味です。



今、世界は
割れています。



僕達が
「割れない」と思っていたものが
意図も簡単に「割れる」んだと
明らかにされる毎日です。


割れないものを
何処に求めるか?
割れない根底的な価値は何なのか?

それが、これからのテーマでしょう。



ファシリテーター
冨永良史




 出来事・日記 コメント(0)
思いを固定せずに。



自分が感じていること、思っていることを
そのままに相手に伝えることは
僕達が自覚している以上に難しいことのようです。



「自分はこう思っている」と
自分で自分に確信を持つことすら
実は難しいのですから。



自分が発している言葉が
自分の思いと一致していると
自信を持つには、相当な思考力と表現力が必要です。


しかしながら、言葉の力は偉大で
いったん言葉として発してしまうと
それが確固たるモノのように固定化されがちです。


言葉にしたことによって
「自分はこう思っている」と
自信を持ってしまうんです。


本当は、そんな簡単なことじゃないのに。。。
もう少し考えたら、また考えが変わるかもしれないのに
言葉にしたとたんに、「これが俺の考えだ!」と思いこみ
なおかつ、やっかいなことに、それを守ろうとし始めます。
他の意見を受け入れがたくなります。



この錯覚から、僕達は自由にならないと
創造的な対話は困難だろうと思います。


固定化された思いの交錯からは
衝突や平行線だけが生まれるでしょうから。


僕達は、そんなに簡単に
自分の思いを表現することはできないし
ましてや、誰かと、その理解を共有することなどできません。


意見を発するということは
思いを固定化することではなく
対話の場に、仮説、問いかけを投げ入れている
という自覚が必要です。


「自分の思いらしきもの」をきっかけに
そこに集う「みんなの思い」を探すんだという気持ちが必要です。


創造的な議論とは
揺れ動く不安定な思いの交錯の中から
徐々に固まった思いが結晶のように生まれてくるのだと思います。


自分は何が言いたいのか。
私たちは何を思いたいのか。


それは、みんなで探すもの。
固定化された主張からは、見つからないはずです。



ファシリテーター
冨永良史
 発創する会議術 コメント(0)
不条理。何に託すのか。



金融不安は加速し
世界恐慌の気配に恐々とさせられ

親が子を、子が親を
生徒が先生を傷つける事件が続き

生きるのが嫌になった男が放った火は
15人もの命を奪いながら
当人が生き残る


何もかもが断片化し
不条理に揺れ動く現在。


なんの偶然か
こんな時に、アメリカと日本は
大きな選挙の時を迎えています。


僕達はいったい
何に託せば良いのでしょうか。


答えが見えず、迷いが増すばかりかに
思われている時


日本人のノーベル物理学賞、科学賞の
受賞の報せが続きました。


30年も前になされた研究の真価が
評価されたようです。


先生方の歩みを概観すると
あまりに実直で、信じられないくらいの地道さの上に
その成果がもたらされていることを思い知らされます。


今、目の前にある、不条理な不安の数々は
先生方の歩みに比べて、表層的で刹那的な歩みのもたらした
必然の結果だったのではないかとさえ、思えるのです。


砂粒を積み上げるかのような
信念の日々がもたらした結果と

瞬間の快楽に身を躍らす
他力本願の日々がもたらした結果。


その間にある断層に
慄然とした気分にさせられます。


しかし一方で
こうなってしまった現在
僕達は、信念の日々を送った先生方と
同じ人間であることを頼りに

自分達に眠る力にこそ託すべきなんだろうと思います。


選挙とは託すべきリーダーを選ぶ行為です。
が、しかし、本来、託すべき自分の信念を確かめる行為でもあるはずです。


不条理な不安にまみれて
ひとりひとりが問い直しの時を迎えているように思います。


誰かに託すだけでなく
託すべき自分
託すべき私たちになることを。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
教祖さまの予言は外れない。




絶対的な崇拝を受ける教祖さまが発した予言は
外れることがありません。


それは、信者によって「実現される」からです。


もし、それが「○月○日に大地震が起きる」という
自らの影響力の及ばない予言であったら。。。



現実の認識方法を変えることによって
予言は成就に準じた解釈をされます。
例えば


「我々の信仰が大地震を回避させた」
といった具合に。



以上は、認知心理学者レオン・フェスティンガーの
認知的不協和理論の「さわり」です。
乱暴なたとえですが、エッセンスはこんな感じ。。。



自分の信念や思い込みと現実との不一致を
認知的不協和と呼び
それが生じた時、僕達は
現実をゆがめてでも、自分の信念を
「実現したかのように」思い込もうとするわけです。




さて、このような認知的不協和の回避は
なにも熱狂的な信仰心のもとでだけ起きるわけではなく
僕達の日常で、いつも起きています。


むしろ、認知的不協和の回避によって
僕達の現実は成り立っているといっても良いくらいです。


自分の思いに不都合のあるような情報は
なんらかの歪みをもって認知されます。

あるときは過剰反応をもたらし
あるときは過小評価をもたらし
あるときは無視をもたらします。


同様に、自分に都合の良い情報は
過大評価され、それだけを選択的に認知したりします。



この認知的不協和の回避行動によって
誤った認識、行動が導かれることは
容易に想像できます。


これを防ぐために重要な役割を果たすのが
「身近で批判する他者」の存在だと思われます。


遠くの他者がいくら批判しても
無視したり、過小評価することで
認知的不協和を回避できますが


スグ目の前で、自分の意見に異を唱えられれば
回避するのは困難です。
意見の差異に注目せざるを得なくなります。


ある集団が健全性を保てるかどうかは
この「身近で批判する他者」にどう向きあうか?
で決まってくるはずです。


批判者と向き合い
意見の差異を創造の源と捉えられれば
その集団は健全さと創造性を保つでしょう。


批判者を排除し
意見の差異を恐怖と破壊の源と捉えれば
その集団は外世界に対して閉じてしまい
思い込みに満ちた急進的(または過剰に保守的)になるでしょう。



僕達は
常に思いこみに満ちており
しかも、その思い込みに合わせて現実をゆがめます。

集団行動をとるとき
その傾向は加速します。



身近な批判者を
異分子ではなく、創造の源と捉えること
外世界に対して閉じないことが
組織に教祖さまを誕生させないポイントでしょう。


ファシリテーター
冨永良史
 発創する組織風土 コメント(0)
江戸川乱歩から始まった。



推理小説が好きです。

ルーツは
小学生の時に
江戸川乱歩ワールドに耽溺したことでしょうか。


何気ない、当たり前の生活の場が、乱歩の言葉によって
不気味なおどろおどろしい空間にゆがめられていくような感覚に
ハマリこみました。


「言葉が現実を生み出していく力」
に驚いたんです。



その後、中学から大学にかけて
大掛かりなトリックと謎解きを特徴とした
島田荘司、綾辻行人などの作家が好きになりました。
ふたりの著名な傑作は、今でも読み返します。

「占星術殺人事件」(島田荘司)
「十角館の殺人」(綾辻行人)


共通する特徴は
「驚異的な知能を持つ、変人の名探偵」が主人公
ということです。


例えば、島田作品では「御手洗潔」という探偵が主人公ですが
御手洗さんは、人の名前はちっとも覚えないし
世間の常識はまったく放り出して、自分の思考だけを頼りに前進していきます。
だから、まわりの人は振り回されてばかり。。。


そういえば、シャーロック・ホームズも明智小五郎も金田一耕助も
みんなよく似てますね。


「常識を保留して思考を組み立てる」
という彼らの知性に魅かれました。



そして今、東野圭吾です。
社会問題から名探偵ものまで
幅広い作風ですが

人間の感情の深淵
特に、本当はフタをして見ないことにしたいような部分を
丁寧に、淡々と描写していく筆致が特徴でしょうか。


「白夜行」「幻夜」「手紙」

など、推薦したい作品がたくさんあります。
さて、東野作品で、今、一番話題なのは
直木賞受賞作にして、10月4日から映画公開されている


「容疑者Xの献身」

変人ガリレオと呼ばれる天才物理学者、湯川学が活躍する
ガリレオシリーズのひとつです。

ガリレオもまた、史上の名探偵に負けず劣らず変人で
人間関係にはほとんど頓着せず
事件の謎を、物理的な事実をひとつひとつ積み上げることによって
解明していきます。


まわりの刑事や同僚が
事件の種々の情報に対して、すぐに
「○○じゃないか?」「これは○○ということだ」
と判断を下すのに対して、ガリレオは

「。。。さっぱりわからない」
「まだ、仮説の段階だ」

と、そう簡単に判断をしません。


「事実と感情を分離し」「仮説と結論を分離し」
丁寧に思考を進めていく姿勢には
とても多くを学ばされました。



長々と、僕の推理小説体験を振り返ってきました。
この体験を通じて学んだこと、魅かれたことは、つまり。。。


なぜ、謎が謎になるのか?


ということにつきるように思います。


僕達は
それぞれの思いに導かれて
日々、言葉で現実を紡いでいきます。


現実そのものを描写しているわけではなく
独自の思いを言葉で外世界に投射しています。

その他人との共通部分や固定化された部分を
僕達は「常識」や「現実」と呼ぶのでしょう。


常識や現実は「仮説」にすぎないわけです。
背後には、生々しい感情が隠されていて
本来、少しも固定的なものではありません。

なのに、それが「結論」として動かないモノとして扱われた時
そこに、「謎」が入り込む隙が生まれるのでしょう。


何が起きているのか?という思考と
それをどう受けとめるのか?という思考の間には
感情や嗜好が蠢いているのですが
それは、常識によって隠されてしまうようです。


カチカチの常識というフタを
取り除かれたときに現われる
生の世界に魅かれ続けています。


ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
質問という創造。



遅めの昼食をとりながら
国会の代表質問を視ていました。



登壇する質問者の方々の表情は
「いざ決戦」とか「さぁ、晴れ舞台だ」とか「聴かせてやるぞ」
みたいな感じに見えますね。。。


覚悟は、それでも結構ですが
質問内容は

自己主張のおまけに
質問をちょこっとつけたす

という具合で
演説の舞台とカン違いしそうなものでした。
いつものことですが。。。



質問というのは
すぐれて創造的な行為だと考えています。


お互いに完璧足り得ないからこそ
お互いの違いを浮き立たせ
それを超克する方策を
共に作り出すための共同作業に
なりえるはずだと考えています。


「違う」ということは
責めるべき対象ではなく
創造の源泉として扱ったとき

立場の違いは
まさに弁証法的に乗り越えられるでしょう。


質問の場で
長々と自己主張するということは
弁証法の対極をいく行為です。


一方で、麻生首相が所信表明演説で
民主党に「質問」したことが批判されていますが

これは
政権を預かる総理大臣の所信、決意の現われとして
ごく当然の行為だと思います。


質問とは
前進し、実現し、創造するための行為です。
停滞し、否定し、破壊するための行為であってはならないでしょう。



その人が
どんな質問の仕方をするかによって
目の前の現実に
どのように向き合っているのかが
わかるように思います。


ファシリテーター
冨永良史

 発創する会議術 コメント(0)
不足と共有。過剰と分散。



今日の日経新聞によれば
カーシェアリングが徐々に広がっているそうです。


複数の世帯が
1台の車をシェアして
使った分だけ費用を負担するというシステムです。


石油高騰による家計圧迫
それに、環境負荷低減が加わって
浸透を後押ししているようです。


不足が共有を促す
という構図が読み取れます。


資源の不足
家計の不足



車の共有

を促しています。


資源に頓着せず
好景気だった時代(つい最近です)


車は一家に一台ではなく
ひとりに一台を珍しくありませんでした。
今でも田舎の車社会では、そういう状態ですが。。


つまり
過剰が分散を促す
という構図でした。



過剰による分散から
不足による共有へ

社会の舵は徐々に切られているように見えます。


そういう時代において
大切なことは


モノの共有だけでなく
マインドの共有が進まなければならない
ということです。


いったん大きく分散化に振れた針を
共有に振り戻すとき

個別生活に慣れたマインドを
他人と一緒に営むというパブリックなマインドに
振り戻さないといけないでしょう。



単なるモノの共有だけで
マインドは分散化したまま
個別生活のままであるとき

共有はリスクになります。


共有するということは
エラーの波及効果が大きいということでもあります。


ひとりのエラーが
それを共有する全員に被害をもたらします。


昨日起きた個室ビデオ店の大参事は
単なるモノ(スペース)の共有だけしかなかったところに
生じたエラーの波及だと受けとめています。


長屋の火事は
パブリックなマインドを共有する住民の協力で
消し止められますが

個室ビデオの火事は
誰も協力することなく
多くの人の命を失いました。


モノの共有と
マインドの共有。

不足する時代に
過剰の時代の後遺症が
現われています。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
失言を聴く耳。




信念が正しくとも
それを伝え、叶えることを急ぎ
誤った方法をとってしまい
結局、誰にも何も伝わらず
信念とは逆の結果が生じてしまうことがあります。



中山成彬前国土交通大臣が
自らの失言の責任をとって
大臣の職を辞しました。



後の報道で
彼の失言の背後にあった意図の一端を知りました。


失言と評された彼の指摘のすべてが誤りであったと
言い切れる人はいるでしょうか?


彼の指摘の根底には


支持基盤の成り立ちにフタをして
根拠のない公約を掲げてはいけない。


何をどのように教育するのかは
一部の急進的な考えによって影響を受けてはならない。


という考えがあり
だからこそ、民主党と日教組のありかたに疑問を呈したわけですが
その思いがほとばしるあまり
極端で過激な表現になってしまっているようです。


これは僕の解釈であって
それが本当かどうかはわかりません。

ただ、問題にしたいのは


「国務大臣の職にありながら不適切な発言」とか
「失言=辞任」とか


そういう「べき」論が
彼の失言の直後から、あふれかえったことです。


なぜ、彼の発言の真意を彼の言葉で問おうということが
真っ先に行なわれなかったのか。
なぜ、真っ先に責任問題、辞任要求になるのか。
辞任が僕たち国民にどんな利益を与えるのか?

その展開が、僕には受け入れられませんでした。




彼の「思い」と「伝え方、表現」を
分けて考えられなかったのだろうか?


それが残念です。

国務大臣たるもの
常に完璧な表現を求められるのでしょうか?

完璧な表現ができるようになるまで
無言を貫かねばならないのでしょうか?
当たり障りのないことだけを言うべきなのでしょうか?


それがどんな考えであっても
信念をもったものであるなら
自らの存在をかけて、みんなに伝える。

表現が足らなければ
真意が伝わるまで言葉を換えて繰り返す。

聴き手は、表現にばかり反応せずに
伝え手の真意を受けとめるように
発言の背景を深く確認する。



これは
社会全体で何かを創り上げていこうとする時の
コミュニケーションの原則だろうと思います。
つまり、今、まさに求められている原則だろうと思います。


上っ面のキレイな発言、無難な発言だけを歓迎するなら
社会の問題は何ひとつ解決しないどころか
表にでることすらありません。


言葉は乱暴でも
正しい指摘があるのかもしれない。
自分には見えない、自分には言えないけれど
彼なら見える、彼なら言える社会の病根があるのかもしれない。


そういう思いで、彼の真意を問うのが
まず先だったのではないかと思うんです。


実際
彼の指摘の根底にある考えは
特に偏ったものでもなく
常に問われるべき問題です。

党は嘘を言ってはいけない。
教育がゆがめられてはいけない。

それを伝えるときの、事実認識や表現に
偏りや先入観が混じったのは確かでしょうけれど。
指摘の方向性は間違ったものではないはずです。


そこから、より良い政党のありかた
より良い教育のありかたに向けて
議論が膨らんでいくことを望みたいのに。。。


真意は後回しで
表現の良し悪しから責任問題、辞任。。。


問われる順序が違うと思います。



これからの社会は
答えが見えず、社会全体で話し合いながら
答えを探していく、「話し合い社会」です。


儀式的、儀礼的な発言ばかりを求め
核心をとらえているかもしれない乱暴な発言を排除するなら
いつまでたっても答えが見えません。


僕達に必要なのは
儀式としての話し合いに必要なマナーをチェックすることではなく
大臣であろうと小学生であろうと
彼が、なぜ、何を言いたいのか?
に心から耳を傾けることではないでしょうか?


ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。