発創アリ。

2008 05
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40人の瞳。



地元の仁愛大学で
ビジネスコミュニケーション研究という授業を
担当するようになって約2ヶ月。
全体予定の3分の1が終了しました。


毎回、授業内容についての
フィードバックをミニレポートしてもらうようにしてます。


いつも感じるのは
40人の瞳が僕の色んな振る舞いを
色んな風に解釈してるんだ
ということです。


授業方針としては

プログラム・デザインは大雑把に
その場で起きたことを丁寧に探求して
生の現実から、使える学びを発見する。

と考えています。
かなり即興に頼った授業です。


普段は話さないような人と
普段は話さないようなテーマについて
まじめに話すことを求めるのですが

そういう方法は
案外と好評です。

一方で
僕が最重要の意図を込めて伝えたメッセージ、振る舞いよりも
ほんのささやかな言動が一部の学生達には
大きな影響を与えたりしています。


何の意識もしていないような
些細な振る舞いに過敏に反応するんですね。

40人いれば、40通りの反応ポイントがあって
それでもなお、ひとつの方向に向けて
みんなの時間と思考をデザインしていかなければいけないわけで
なんともやりがいのあるお仕事です。


しかしながら。。。
40人は多すぎたかなぁ(汗)

じっくり深く学びを探求するには
ふさわしい人数がありますね。やっぱり。


それぞれに何かを求めて集った40人に
どれだけリアルな何かを発見させてあげられるか。
チャレンジの日々は続きます。


ファシリテーター
冨永良史
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 出来事・日記 コメント(0)
学ぶとは何を知ることなのだろう?



知識社会、知識経済と言われ
様々な知識、ノウハウが
世にあふれています。


ITの発展によって
それらあらゆる知識に
僕達はアクセス可能な状態にあります。


本気になれば
どんな知識にだって触れられます。


このような環境にあって
今一度、ふりかえりたいことは
学ぶということの本質です。


学ぶということは
新しい考えに触れ、吸収し
自ら新しい現実を切り拓くべく
その考えを実行へと結びつけて行く行為です。


その根底にあるのは
知識そのものの吸収ではなく


自分とは異なる他者への
深い理解


だろうと考えています。


なぜ
その知識は生まれたのか。

どんな背景を持った人が
どのような意図をもって
それを生み出したのか。


その理解なくして
本当の学びは発生しえないのではないか。
そう考えています。


教師や書籍や
または生々しい現実に触れるとき


その背後に密やかに根付いている
他者の意図、思いにこそ
真摯な眼差しを向けなければならない。


それができた時
単なる方法論、ノウハウの吸収を超えて
個人の知は、世界の知へとふかく絡みあい
成長の萌芽を手に入れるのではないでしょうか。


ファシリテーター
冨永良史
 発創する教育術 コメント(0)
老化とは何だろうか?



老いることには
プラスの側面とマイナスの側面が
あることでしょう。


経験値の蓄積によって
動じることが少なくなり
全体を俯瞰した上で
適切な判断ができるかもしれません。


一方で。。。


最近、強く感じることは

老いることは
「学び」の能力が下降するリスクを
負うことである

ということです。


経験が豊富であるが故に
未知の知識、方法に対する
好奇心、受容感、期待感
いずれもが薄くなってしまい

自分の身につけた方法論から
逃れられなくなっていく。


というのが
老いがもたらす「学び力低下」のリスクです。



こう考えると
若くして老いてしまっている人は
決して珍しくなく
高齢であっても、若い学び力を維持している人も
決して珍しくないことが見えてきます。



身体感覚においても
老いとは、柔軟性をなくし、
適応できる状況が狭まってくることです。


この点においても、30代であっても
既に老いている人は
大勢いることでしょう。



僕達の心身は
常に転変していくものである。
常に移ろいながら、常に維持されていく。
そういう感覚を忘れないことは
老いと若さの両立に欠かせないように
感じています。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
教育とは何を与えることなのか?




仰々しいタイトルをつけてみました(笑)



教育とは何を与えることなのか?



ひとことで答えてみたいんです。



教育とは
人とわかりあう勇気と手法を
与えること



数学、物理、国語、社会
経営戦略、マーケティング、財務会計。。。



ありとあらゆる教育は


人とわかりあうには
何が必要なのか?
どうふるまえばいいのか?


に対する答えを
根源的に内包しなければならないだろうと
僕は考えています。



それが含まれていない教育は
技術、知識の暴走を起こす源のように見えます。
いかに、革新的な知識体系であっても。。。




自然原理の理解も
社会原理の理解も


それは対象をコントロールするためにあるのではなく
わたし達自身が共有する自然や社会や市場というステージを
深く理解することで

お互いが活かしあえる関係を築くためにこそ
あるのだろうと考えています。



ファシリテーター
冨永良史
 出来事・日記 コメント(0)
理想会議には時間が足りない?



会議術にまつわる
セミナー、ワークショップを
産学官、様々な皆様に提供させていただいておりますが。。。


常に焦点になるのは
会議時間の問題です。


多くの方がおっしゃるには。。


「あるべき会議の方法は理解できる。
 が、しかし。。。
 その方法を実行するだけの時間的余裕がないんだ」


という現実です。


なるべく多くの人の意見を引き出し
結論を急がず、差異を見極め、高い目的・理想を確認しながら
いままでにない結論を「創造」していく議論こそが必要


。。。なのですが。
その必要性と方法は理解できても
そのために要する時間が
日々の業務の中には見出せない。
そんな素晴らしい会議をやっている時間がない。


ということなのです。


僕も現場最前線の多忙さを知らないわけではないので
ものすごく共感できる意見です。


ではありますが。。。
この種の意見の背後にある無意識的に出来上がっている
共通する考えを見逃すわけにはいきません。
それは。。


仕事とは最終的には
現場で個人が解決するもの。

だから

個人が現場で活動できる時間を最大化しなければならない。
そのためには、会議の優先順位が落ちても仕方がない。


という考えです。



ここでは
成果に対する欲求ばかりが優先され
その成果を支えるモチベーション、スキルに対する軽視が
見られるように思えます。


会議、話しあい、合議、意見の出しあい、合意形成、アイディアの創造


これらの行為はすべて
うまくいったならば、僕達のモチベーションをいとも簡単に倍化させ
スキルの飛躍を後押しするものだと思うのです。


僕達の人格、判断、行為は
個人として自律しているのではなく
他者との相互作用の元で動的に成立しているので

チームのメンバーとの話しあいが上手くいくか否かは

あらゆる人にとって、モチベーション、スキルの
大きな変動要因になるはずです。



というわけで


あるべき会議の方法はわかったが
そのための時間がない。


という意見は


会議の本当の意味、意義が
まだ十分に理解できていないが故に
生まれてくる意見


だと思うのです。
会議の生産性、そこで生み出される納得感、革新性こそが
現場最前線での個人のモチベーション、スキルを根源的に左右し
それこそが、個人およびチームのパフォーマンスの源です。


会議のために、そんなに時間を使っていられない


という考えによって失われてしまう機会は
想像以上に大きいものだと思います。


会議とは
余った時間でやるものではありません。

かといって
現場の仕事をそっちのけでやるものでもありません。

会議とは
現場の仕事のよりよい解決、革新のためにこそやるものです。

というわけで、必要なことは

会議に十分な時間を確保しつつ
その方法探求と、そこへの参加意識を
どこまでも高く、高く追求していくべき
組織課題として捉えることだろうと考えています。


ファシリテーター
冨永良史


 発創する会議術 コメント(2)
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