今日、10月13日は
体育の日なんですね。。。
2000年からは
ハッピーマンデーということで
連休になりやすいように
10月の第2月曜日が体育の日
になってます。
僕は、1971年生まれですから
29年間は
10月10日が体育の日
だったわけです。
そうすると
第2月曜に変更されてから
わずか8年では
29年というもとの経験が長すぎて
「やっぱり、体育の日は
10月10日じゃなきゃなぁ〜」
「なんかヘンな感じ」
と、あまり根拠のない感慨をいだくわけです。
もっと年上の皆さんは
10月10日が東京オリンピックの開会式の日
日本の高度経済成長とスポーツの祭典の象徴のような日という
確かな根拠をもって、10日に思いを寄せるかもしれません。
でも、僕なんて、それすら知らずに
「やっぱり10日じゃなきゃ。。」てな具合になっちゃってます。
繰り返し、習慣というのは
すごい影響力を持ってます。
たいした根拠がなくて
それを繰り返し経験するだけで
それが当たり前になり
そうなることを望むようになる。
そんな心理的な現象が起きます。
僕達が今
何を求めているのか
何に違和感を感じているのか
その源をよくふりかえってみると
ひょっとして
「いつも必ずそうだったから」とか
「ずっとそうだったのが、急になくなったから」とか
そんな根拠のものが
意外と多く、見つかるのかもしれません。
ファシリテーター
冨永良史
- 2008/10/13(月) 18:34:30|
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ここしばらく、毎日
「割れ」という言葉がメディアを飛び交っています。
「東証1万円割れ」
「ダウ9000ドル割れ」
「NY原油80ドル割れ」
昨日割れたものが
今日さらに割れる
ということが続いています。
割れる。。。
何か確固としたものが
砕けるようなイメージがあります。
実際、「ここまではないだろう」という一線を
日々、突破しているわけですから
文字通り「割れ」る日々です。
「割れる」には
もうひとつの意味があります。
・・・隠れていたことが明らかになる
という意味です。
今、世界は
割れています。
僕達が
「割れない」と思っていたものが
意図も簡単に「割れる」んだと
明らかにされる毎日です。
割れないものを
何処に求めるか?
割れない根底的な価値は何なのか?
それが、これからのテーマでしょう。
ファシリテーター
冨永良史
- 2008/10/10(金) 23:41:59|
- 出来事・日記
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金融不安は加速し
世界恐慌の気配に恐々とさせられ
親が子を、子が親を
生徒が先生を傷つける事件が続き
生きるのが嫌になった男が放った火は
15人もの命を奪いながら
当人が生き残る
何もかもが断片化し
不条理に揺れ動く現在。
なんの偶然か
こんな時に、アメリカと日本は
大きな選挙の時を迎えています。
僕達はいったい
何に託せば良いのでしょうか。
答えが見えず、迷いが増すばかりかに
思われている時
日本人のノーベル物理学賞、科学賞の
受賞の報せが続きました。
30年も前になされた研究の真価が
評価されたようです。
先生方の歩みを概観すると
あまりに実直で、信じられないくらいの地道さの上に
その成果がもたらされていることを思い知らされます。
今、目の前にある、不条理な不安の数々は
先生方の歩みに比べて、表層的で刹那的な歩みのもたらした
必然の結果だったのではないかとさえ、思えるのです。
砂粒を積み上げるかのような
信念の日々がもたらした結果と
瞬間の快楽に身を躍らす
他力本願の日々がもたらした結果。
その間にある断層に
慄然とした気分にさせられます。
しかし一方で
こうなってしまった現在
僕達は、信念の日々を送った先生方と
同じ人間であることを頼りに
自分達に眠る力にこそ託すべきなんだろうと思います。
選挙とは託すべきリーダーを選ぶ行為です。
が、しかし、本来、託すべき自分の信念を確かめる行為でもあるはずです。
不条理な不安にまみれて
ひとりひとりが問い直しの時を迎えているように思います。
誰かに託すだけでなく
託すべき自分
託すべき私たちになることを。
ファシリテーター
冨永良史
- 2008/10/08(水) 22:42:31|
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推理小説が好きです。
ルーツは
小学生の時に
江戸川乱歩ワールドに耽溺したことでしょうか。
何気ない、当たり前の生活の場が、乱歩の言葉によって
不気味なおどろおどろしい空間にゆがめられていくような感覚に
ハマリこみました。
「言葉が現実を生み出していく力」
に驚いたんです。
その後、中学から大学にかけて
大掛かりなトリックと謎解きを特徴とした
島田荘司、綾辻行人などの作家が好きになりました。
ふたりの著名な傑作は、今でも読み返します。
「占星術殺人事件」(島田荘司)
「十角館の殺人」(綾辻行人)
共通する特徴は
「驚異的な知能を持つ、変人の名探偵」が主人公
ということです。
例えば、島田作品では「御手洗潔」という探偵が主人公ですが
御手洗さんは、人の名前はちっとも覚えないし
世間の常識はまったく放り出して、自分の思考だけを頼りに前進していきます。
だから、まわりの人は振り回されてばかり。。。
そういえば、シャーロック・ホームズも明智小五郎も金田一耕助も
みんなよく似てますね。
「常識を保留して思考を組み立てる」
という彼らの知性に魅かれました。
そして今、東野圭吾です。
社会問題から名探偵ものまで
幅広い作風ですが
人間の感情の深淵
特に、本当はフタをして見ないことにしたいような部分を
丁寧に、淡々と描写していく筆致が特徴でしょうか。
「白夜行」「幻夜」「手紙」
など、推薦したい作品がたくさんあります。
さて、東野作品で、今、一番話題なのは
直木賞受賞作にして、10月4日から映画公開されている
「容疑者Xの献身」
変人ガリレオと呼ばれる天才物理学者、湯川学が活躍する
ガリレオシリーズのひとつです。
ガリレオもまた、史上の名探偵に負けず劣らず変人で
人間関係にはほとんど頓着せず
事件の謎を、物理的な事実をひとつひとつ積み上げることによって
解明していきます。
まわりの刑事や同僚が
事件の種々の情報に対して、すぐに
「○○じゃないか?」「これは○○ということだ」
と判断を下すのに対して、ガリレオは
「。。。さっぱりわからない」
「まだ、仮説の段階だ」
と、そう簡単に判断をしません。
「事実と感情を分離し」「仮説と結論を分離し」
丁寧に思考を進めていく姿勢には
とても多くを学ばされました。
長々と、僕の推理小説体験を振り返ってきました。
この体験を通じて学んだこと、魅かれたことは、つまり。。。
なぜ、謎が謎になるのか?
ということにつきるように思います。
僕達は
それぞれの思いに導かれて
日々、言葉で現実を紡いでいきます。
現実そのものを描写しているわけではなく
独自の思いを言葉で外世界に投射しています。
その他人との共通部分や固定化された部分を
僕達は「常識」や「現実」と呼ぶのでしょう。
常識や現実は「仮説」にすぎないわけです。
背後には、生々しい感情が隠されていて
本来、少しも固定的なものではありません。
なのに、それが「結論」として動かないモノとして扱われた時
そこに、「謎」が入り込む隙が生まれるのでしょう。
何が起きているのか?という思考と
それをどう受けとめるのか?という思考の間には
感情や嗜好が蠢いているのですが
それは、常識によって隠されてしまうようです。
カチカチの常識というフタを
取り除かれたときに現われる
生の世界に魅かれ続けています。
ファシリテーター
冨永良史
- 2008/10/06(月) 12:33:44|
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今日の日経新聞によれば
カーシェアリングが徐々に広がっているそうです。
複数の世帯が
1台の車をシェアして
使った分だけ費用を負担するというシステムです。
石油高騰による家計圧迫
それに、環境負荷低減が加わって
浸透を後押ししているようです。
不足が共有を促す
という構図が読み取れます。
資源の不足
家計の不足
が
車の共有
を促しています。
資源に頓着せず
好景気だった時代(つい最近です)
車は一家に一台ではなく
ひとりに一台を珍しくありませんでした。
今でも田舎の車社会では、そういう状態ですが。。
つまり
過剰が分散を促す
という構図でした。
過剰による分散から
不足による共有へ
社会の舵は徐々に切られているように見えます。
そういう時代において
大切なことは
モノの共有だけでなく
マインドの共有が進まなければならない
ということです。
いったん大きく分散化に振れた針を
共有に振り戻すとき
個別生活に慣れたマインドを
他人と一緒に営むというパブリックなマインドに
振り戻さないといけないでしょう。
単なるモノの共有だけで
マインドは分散化したまま
個別生活のままであるとき
共有はリスクになります。
共有するということは
エラーの波及効果が大きいということでもあります。
ひとりのエラーが
それを共有する全員に被害をもたらします。
昨日起きた個室ビデオ店の大参事は
単なるモノ(スペース)の共有だけしかなかったところに
生じたエラーの波及だと受けとめています。
長屋の火事は
パブリックなマインドを共有する住民の協力で
消し止められますが
個室ビデオの火事は
誰も協力することなく
多くの人の命を失いました。
モノの共有と
マインドの共有。
不足する時代に
過剰の時代の後遺症が
現われています。
ファシリテーター
冨永良史
- 2008/10/02(木) 09:21:26|
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信念が正しくとも
それを伝え、叶えることを急ぎ
誤った方法をとってしまい
結局、誰にも何も伝わらず
信念とは逆の結果が生じてしまうことがあります。
中山成彬前国土交通大臣が
自らの失言の責任をとって
大臣の職を辞しました。
後の報道で
彼の失言の背後にあった意図の一端を知りました。
失言と評された彼の指摘のすべてが誤りであったと
言い切れる人はいるでしょうか?
彼の指摘の根底には
支持基盤の成り立ちにフタをして
根拠のない公約を掲げてはいけない。
何をどのように教育するのかは
一部の急進的な考えによって影響を受けてはならない。
という考えがあり
だからこそ、民主党と日教組のありかたに疑問を呈したわけですが
その思いがほとばしるあまり
極端で過激な表現になってしまっているようです。
これは僕の解釈であって
それが本当かどうかはわかりません。
ただ、問題にしたいのは
「国務大臣の職にありながら不適切な発言」とか
「失言=辞任」とか
そういう「べき」論が
彼の失言の直後から、あふれかえったことです。
なぜ、彼の発言の真意を彼の言葉で問おうということが
真っ先に行なわれなかったのか。
なぜ、真っ先に責任問題、辞任要求になるのか。
辞任が僕たち国民にどんな利益を与えるのか?
その展開が、僕には受け入れられませんでした。
彼の「思い」と「伝え方、表現」を
分けて考えられなかったのだろうか?
それが残念です。
国務大臣たるもの
常に完璧な表現を求められるのでしょうか?
完璧な表現ができるようになるまで
無言を貫かねばならないのでしょうか?
当たり障りのないことだけを言うべきなのでしょうか?
それがどんな考えであっても
信念をもったものであるなら
自らの存在をかけて、みんなに伝える。
表現が足らなければ
真意が伝わるまで言葉を換えて繰り返す。
聴き手は、表現にばかり反応せずに
伝え手の真意を受けとめるように
発言の背景を深く確認する。
これは
社会全体で何かを創り上げていこうとする時の
コミュニケーションの原則だろうと思います。
つまり、今、まさに求められている原則だろうと思います。
上っ面のキレイな発言、無難な発言だけを歓迎するなら
社会の問題は何ひとつ解決しないどころか
表にでることすらありません。
言葉は乱暴でも
正しい指摘があるのかもしれない。
自分には見えない、自分には言えないけれど
彼なら見える、彼なら言える社会の病根があるのかもしれない。
そういう思いで、彼の真意を問うのが
まず先だったのではないかと思うんです。
実際
彼の指摘の根底にある考えは
特に偏ったものでもなく
常に問われるべき問題です。
党は嘘を言ってはいけない。
教育がゆがめられてはいけない。
それを伝えるときの、事実認識や表現に
偏りや先入観が混じったのは確かでしょうけれど。
指摘の方向性は間違ったものではないはずです。
そこから、より良い政党のありかた
より良い教育のありかたに向けて
議論が膨らんでいくことを望みたいのに。。。
真意は後回しで
表現の良し悪しから責任問題、辞任。。。
問われる順序が違うと思います。
これからの社会は
答えが見えず、社会全体で話し合いながら
答えを探していく、「話し合い社会」です。
儀式的、儀礼的な発言ばかりを求め
核心をとらえているかもしれない乱暴な発言を排除するなら
いつまでたっても答えが見えません。
僕達に必要なのは
儀式としての話し合いに必要なマナーをチェックすることではなく
大臣であろうと小学生であろうと
彼が、なぜ、何を言いたいのか?
に心から耳を傾けることではないでしょうか?
ファシリテーター
冨永良史
- 2008/10/01(水) 18:01:24|
- 出来事・日記
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なぜだかわからないけれど
アタマが働かないときがあります。
もともと、たいして働きの良くないアタマなのに
やたらと混乱して、迷ってばかり
あっちを考えたと思ったら、こっちが心配になり
ちょっとしたことなのに、いつまでも結論がでない。
そんな悲惨な状態が
やってくるんです。
多分、原因は
机の上にモノを広げすぎたら仕事にならないのと同じで
アタマの中に、いろんな課題を広げすぎてて
収集がつかなくなってるんだなと思います。
こういう支離滅裂、効率最悪の後にこそ
「それだぁ〜!」というすごい飛躍がやってくることも
少なくないのですが
そのまんまどん底を這い回ることも少なくありません(笑)
で、なんとなく解決策らしきものを見つけました。
ま、どこでも、誰でも言われている平凡なことですが。。。
アイマスクして
椅子にもたれかかって
ゆったりめのBGMを聴きながらボーっとします。
瞑想に近いですけど、一応、アタマは働いてます。
そうすると
思考がリセットされて
支離滅裂に散らかっていたアタマの中が
整理整頓されて、光明が見えてきます。
すごい平凡なことなんですが
ひとつだけ、気をつけていることがあります。
ボーっとしつつ、何を考えるかというと
何が起きているのか?
事実を順を追って正確に思い出していくんです。
そして。。。
どう思うのか?という自分の解釈を
いっさい考えないんです。
事実と感情・解釈は
コインの表裏のように
ぴったりとくっついていますが
ここが離れると
思考にゆとりが出てくるようです。
だから
客観的と思われる事実だけに集中して
自分の解釈や感情にいっさい目を向けない。
そういう時間が
思考をリセットして、次の飛躍につなげるために
役に立つみたいです。
事実と解釈の間に
思考の飛躍のすき間を創りましょう。
ファシリテーター
冨永良史
- 2008/09/29(月) 17:48:41|
- 出来事・日記
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ついさっきまで
自己中心的な性格、振る舞いについての
本を読んでいました。
図書館で借りてきた本です。
というわけで、私物ではなく、みんなのものです。
僕は本を読みながら
反射的に本にメモしたり、線を引いたりすることがあるので
図書館で借りた本を読むときは注意が必要です。。。
さて、そうやって、みんなの本を汚さないように読んでいたら。。。
びっしり線が引いてあるページに出会いました。
>自己中心的なものの見方をする人には
>自分の行動が見えない、直視できない
>むしろそこから逃避しようとする
というような説明がされているところに
びっしり線が引いてありました。
みんなの本なのに
平気で線を引く感覚に憤りを感じて。。そのスグ後に
なんだか笑ってしまいました。
線を引くという自分の行動を直視できていないからこそ
それが自己中心的な行動だとわからずに
線をひくのでしょうけれども。。。
よりによって
「自己中心的な人は、自分の行動を直視できずに逃避する」
なんていう場所に線を引くなんて。。。
あまりの逃避っぷりの見事さに
笑ってしまい
クスクス笑いながら
鉛筆で引かれた、その線を
消しゴムで消したのでした。。。
人って。。。わからないなぁ。。。
ファシリテーター
冨永良史
- 2008/09/25(木) 10:20:35|
- 出来事・日記
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大リーグ、シアトルマリナーズの
イチロー選手のことが大好きです。
彼は今
8年連続200本安打という
大リーグタイ記録に挑戦しています。
今、この記事を書いている時点では
199本に迫っています。あと1本。。。
200本。。。
8年続けて。。。
それがどれだけ偉業であるかは
その達成が
1901年のウイリー・キーラーにまで
遡らなければならないことから感じ取ることができます。
100年以上もの間、大リーガーという
鍛えぬいた身体と、研ぎ澄まされた神経の持ち主たちを
寄せつけなかった記録なのですから。
その偉業に
天才バッター、イチローが挑んでいます。
天才バッターである彼は
1試合で3本以上の安打を記録することも
珍しくありません。
165試合を戦う大リーグであれば
1試合3本を放つイチローであれば
200本は、そう難しいことではないように思えます。
しかし、彼の試合ごとの安打数をつぶさに確認してみると
3安打、ときには、5安打という猛打を放つこともある一方で
0安打の試合も、実は珍しくありません。
3安打を放つより
1試合に1安打、必ず放つほうが
実は難しいようにも思えます。
実際に、年間165試合で165安打以上を放つ選手は
ほんのわずかの超一流選手だけです。
イチローになることは無理だけど
とにかく、毎日、必ずコレだけはやる。
一日にひとつだけ。
とりあえず、200日続けてみよう。
そんなことを
考えていたら
イチロー選手は
見事に200本安打に到達しました。
3安打の猛打賞での達成です。
さすがに
決め方までキマッテマス。
惚れます。。。。
ファシリテーター
冨永良史
- 2008/09/18(木) 11:37:50|
- 出来事・日記
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ものすごく単純化すると
多様化とか個性化ということは
「認められたい」欲求が満たされない。
ゆえに、認めさせるために、コミュニケーションがゆがむ。
というリスクと隣り合わせです。
ある人のある特性を「認める(評価する)」ということは
その根っこに、必ず、自分との「同質性」を認める
ということがあるからです。
自分とどこかでつながっている
という感覚なしに
他人の個性を認めることは困難です。
世の中が
大きな物語、価値観を共有していた時代には
誰もが、お互いに
自分とのつながりを体感していました。
同じモノサシで、お互いを認めることが出来ました。
世の中が
相対化し、多様化してくると
お互いが違うモノサシを持ってるわけですから
認め合うのが難しくなります。
そうすると
「認められたい」欲求が溢れ出て
その解決策として
価値観をおしつけたり
他者を否定したり
極端になれば、存在を消去したりします。
今、社会で起きている
様々な事件や、困難課題の背景に
こんなコミュニケーションの歪みがあることは
多分、間違いないだろうと思います。
僕達は
膨大なお金と手間をかけて
自分の欲求を満たすこともできますが
一円のお金もかけずに
ほんの一瞬で
たった一言、ささやかな笑顔と共に
「認められた」という充足感で幸せになることもできます。
違いを超えて
違いを価値として認めあう
ということは、言い古された言葉かもしれないけれど
断片化をへて再統合の時代に入りつつある現在において
とても重要な意味があるようです。
ファシリテーター
冨永良史
- 2008/09/12(金) 09:52:38|
- 出来事・日記
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