発創アリ。

2017 10
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「信じる」という能力。




信じる


という言葉。
誰でも、いつでも
当たり前に使います。



誰もが


信じるということは
特別なことではない。


と思っています。



食べる、歩く、見る


などと、あまり差のない
人間としての、普通の行為だと
思われているようです。



信じる。。。



一瞬だけなら、そうかもしれませんが。



例えば
自分の理想の実現を信じ
実現するまで信じ続けることは


それは
特別な能力です。



僕達は


理想を持つこと
その実現を信じ続けること
実現するまで信じ続けること


そのことについて
練習、訓練をしなければいけないのではないか。
それは、学校教育でも、社会人教育でも
必要なことではないか。


そんなことを感じています。



もし
すべての人が
信じ続ける能力を持ったならば


世の中は
もっと
牧歌的になるのではないか。


そんなことを
感じながら


発創アリ。第2章
静々とスタートします。



ファシリテーター
冨永良史
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限界に挑む。

幼い娘と砂場遊びしてました。
久しぶりに砂に触れたら、無性に穴が掘りたくなってきて
砂場用におろしたスプーンで穴をほってました。

そしたら、だんだん熱中してきて
どこまでもどこまでも深く掘ってやろうと
手が止まらなくなったんです。

何の特にもならないのに
ただ深い穴を掘り続けるだけ。
なぜか無心で熱中してました。

そう言えば、砂場に出る前には
家の中で、娘と、積み木をどれだけ高く積めるか
に挑戦してたんだっけ。

かなり掘ったんですけど、硬い地盤に当たって
どうしようもなくなったところで
お昼ご飯になりました。

テレビを見たら、大食い王決定戦。
ジャイアント白田とかギャル曽根とかキング山本とか
まるでレスラーのような名前の人たちが
ひたすら食べ続けてました。

これは、もはやスポーツですね。
食い入るように見てしまいました。
「よし、いった」とか「あぁ、負ける」とか
声を出しながら…。

そう言えば、つい先日
肉体の限界に挑むテレビ番組
「筋肉番付」とか「サスケ」にも
熱中してました。


砂場で穴掘りも
大食いも
筋肉番付もサスケも

ごく単純なルールの中で限界に挑む

というところが
ひかれるポイントみたいです。
単純だからこそ、ドラマがあるぞ
みたいな感じですね。


あと共通するのが
充足感。

穴掘りの時の僕も
無心で充足してましたし。

テレビで大食いや筋肉番付やってる人も
すごいいい表情してる。
勝ったらなおさらです。

そこにまたひかれます。
そういう表情って、日常では
実は、なかなか見かけない。


それで、わかりました。
なんで、こういう単純、限界挑み系にひかれるのか。
それが僕だけじゃなくて、実はかなりの人がそうで
テレビでそれなりの視聴率を取っている。

それは、日常にないからなんです。
日常になくて、でも、実は
こういうことが日常にあって欲しい。
こうやって、自分の可能性をイッパイイッパイまで
引き出してみたい、表現してみたい。

そういう思いが背景にあるのではないでしょうか。

本当は、自分の仕事が、生活が
そういう場であるべきなんですけど。

欲しいモノは何でもそろう世の中ですが
こういう充足感は、実は、滅多に手に入らないんですよね。





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人間が変になってる。

スタジオジブリの新作「ゲド戦記
観たいんですけど、子供がまだ小さくて
映画館を怖がるので、DVD出るまで我慢です。

ジブリ作品は家族みんなで観ると決めてるので。
映画館行くかわりに、近くのレジャーランド?で開かれていた
ゲド戦記展」に行ってきました。

映画を解説したパネルとか
実物大のキャラクターの人形とか
映画の場面を再現したセットとか
が展示してありました。

ジブリ作品はとても好きです。
なんだか人間をやさしい方向に導いてくれそうな感じがして。

会場では予告映像が繰り返し流れていて
そこで登場人物が口にしたセリフが心に残りました。

『人間が変になっている』

ストーリーを知りませんから、どんな脈絡で言ったのか
わからないのですが、多分

本当に大切なものを見失ったまま
大切でないものに追い立てられて生きている
そして、大切なものを失いつつある

こんなニュアンスが伝わってきました。
人間が(社会が)変になるときは
みんなで一斉に変になるので、無自覚なりがちだと思います。

でも、映画の登場人物の口から言われたとき
やっぱり、そうだよなぁ
としみじみ感じました。


誰も彼もが本当に忙しい
みんな仕事、子供のこと、お金のことに
追い立てられている。

そんなに忙しい思いをして手に入れている生活は
不満、不安がいっぱい。

通勤途中の風景を改めて見つめると
悲しくなりますね。

みんな、本当につまらなさそう。
これから一日が始まるというのに。

忙しいばかりで
充足感がない。

自分の充足にとってたいして重要でないことに
追い立てられ、忙しい思いをし、嫌な思いをし
その結果、得られるものは不満、不安がいっぱいの生活。

自分が本当は何を欲しいのか、思いをめぐらす暇もなく
正体不明の不満、不安を解消するべく走り続ける。

やっぱり
人間が変になってます。

そんなに働いて、どうするんでしょうか。
どうせ働くなら
心の底から納得できる理由をもって
働きたいです。

ぜんたぁ~い、止まれ!



働く意味、考え直したほうが良くないですか?
今のままなら
働けば働くほど
疲れるし
疲れると余裕無くなるし
発散したくなって
たいして生産的でないストレス解消に時間とられるし

それに
一生懸命働くということは
生産活動を盛んにしているということで
ということは
今の世の中の仕組みを考えると
たいてい、環境破壊に加担するわけです。

ほとんどの生産活動は環境破壊。
これはどうしようもない現実です。

人間だけは環境破壊なしに生きて行くことは不可能。
だったら
理由に誰もが納得できる破壊だけにしないと。

そのためには
ぜんた~い、止まれ!
です。



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錆びついた水道。

次のこと、自分に課します。

当ブログの更新は、毎日、3回以上

やります。
思いついたことは、極力メモするようにしていますが
ブログと自分のメモの大きな違いは

人目に触れること

これは、大事だと思うんです。
自分の脳みそを、外に向けて

タレ流す

ことで、発想が開放される気がします。

思いついたことは
メモするんじゃなくて
人に話せ
人の脳みそにメモするんだ

と言う人がいますが、こういう理屈ではないでしょうか。
人に伝えることを前提にすると
自分へもしっかり伝えることになるようです。

自分向けにメモしているより、ずっと
脳に刻まれる感じ。

それを、自分の身近に話すのではなく
(可能性的には)万人に見てもらえる
(可能性的には)誰かを触発すれば、反応ももらえる
ブログに公開することで
より、効果が上がると思った次第です。


で、それはそうだとして、何で1日に3回もか。
ここでやっとタイトルの
「錆びついた水道」
につながります。

以前、大学の先生から聞いた話がずっと頭に残ってます。
ブレーンストーミングをするときの説明の中にあった言葉です。

>脳みそは錆びついた水道みたいなものです。
>普段考えないことを考えようとしても
>錆びた水道と同じで、最初はにごった水しか出ない
>ろくなアイディアは出ないんです
>それでも、あきらめずに、ずっと出し続けると
>その内、きれいな水、使えるアイディアが出るんです

という内容でした。
これに深く納得したので

ブログの更新は、毎日3回以上、
単なる思いつきを、外の世界に
タレ流す
ことに決めたわけです。

ほとんどは、錆びた水でしょうけれど
たまぁに、綺麗な水が出てくれるはず
と、信じて。

で、早速、今日、これが3回目です。





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終わらない話。

たまに自分も陥るのですが
昨日は、現場を生で見かけました。

終わらない話。
長話。

窓の外には
ずっと立ち話を続ける奥さまが2人。
ラクに1時間以上、立ってない?
明るいうちから話し始めて
すっかり日が落ちるまで。

今の話題が一段落して
ちょっと沈黙が入って

終わるかな…

と思うと

「そうねぇ」

みたいな、何に対してか不明の相槌をはさんで
全然、違う話にうつっていきます。


僕も電話で同じようなことあります。
終わるきっかけを見失ってしまうこと。

沈黙が入ると
前の話題をくりかえしたり
今のどうでもいい雑談をなぜか深堀・発展させてみたり
突然、最近見かけない人の話をしてみたり。


なんで終われないんだろう。
どこで出口を見失ってしまうんだろう。

だいたい
散々、延々、どうでもいい話をして
ふっと場に訪れる疲労感みたいなものを
共有すると

「それじゃ」

なんて、唐突に終わったりします。
今まで、あんなに終わるのを避けてたのに。


なんで終わらないモードになってしまうんだろう。


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キャリアカウンセラーのように。

これからの企業経営者は
ある意味

キャリアカウンセラー

のようになっていくと良いのではなかろうか
と思う。


社員ひとりひとりが
経営者の声に触発されて
大きなビジョンの中に
自分のビジョンを紡ぎこんでいく。

そんな組織は
ものすごく団結して
ひとりひとりが生き生きして
成果を継続的に出していくだろう。


社員に
自分自身のキャリアを描かせるだけの
刺激を与えられるか
触発する問いを、機会を与えられるか

それが経営者には求められると思う。


強圧的な指示・命令によって
触発はされないだろう。

抽象的な夢物語によって
触発はされないだろう。

独りよがり、自分勝手な夢に
触発はされないだろう。


社員のひとりひとりと共有できる
具体的な夢を描ける経営者。

新しい視点、高い視点を示して社員を触発し
新たな可能性を発掘させてあげる経営者。

そんな経営者に必要なのは
「まず知識」でないことは、もはや明らかだ。
財務諸表を読む能力でも、製品知識でもないように思える。

ビジネススクールに
経営者養成のクラスを作るとして

そこに真っ先に入れるべき科目は
なんだろう…


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ちょっとしたことだけど。

相手から思いを引き出すための
ちょっとした質問の仕方。


ついさっき、新聞の販売店の方がやってきました。

「今、お客様のところを回らせてもらってるんです。
配達で何か不都合な点はありませんか?」

と訊ねられました。
顧客の声を集めて、サービス改善につなげようという趣旨でしょう。
でも、朝で、ちょっとぼ~っとしてたし
突然だったので、うまく言葉が出てきませんでした。

その直後に

「遅いとか、濡れているとか、破れているとか…ありませんか?」

と例を挙げて訊ねられました。
そしたら、頭が回りはじめて
新聞配達に関することをず~っと思い返した上で

「特に問題ありませんよ。ご苦労様です」

と答えられました。
どうってことないやりとりなんですけど。

ただ自分の聞きたいことを質問するだけじゃなくて
例を挙げて、相手の頭の動きをすこ~し後押しするだけで
ずいぶんと考えを引き出しやすくなるものだな。
と改めて感じた出来事でした。

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体力養成ゲームセンター。

ゲームばかりしているから体力が低下するんだ。
なんでもすぐにリセットしたくなるんだ。
こんなことじゃ、国の、いや世界の将来はどうなるんだぁ!

これはどう考えても、子供をゲームで洗脳している
ゲーム会社が悪い。

だからゲーム会社は社会に対する責任、いや賠償として
体力増強のためのゲームを開発して
無償で配布すべきだぁ!と思いつきました。


きっかけは、昨日の日経新聞の記事。
若者の体力低下に歯止めがかからない
らしい。

特に持久走。
1500mが
17歳男子で6分20秒
19歳男子で6分40秒

現代の若者は
高校まで出てしまえば、運動を自分から進んでするなんて
「ありえない」ということだろうか。

大学で体育会に入ってまで運動しようというのは
今やかなり奇特な部類らしいし。

とか考えて、外を眺めると
近所の子供が小さなゲーム機を持って
外で遊んでいる。

そう
ゲームばかりせずに外で遊びなさい!
などというセリフは通用しないのだ。

昔ならテレビモニターを使わないとできなかった
高度なゲームが、手のひらに乗るくらい小さな画面に入ってしまって
「外で」できてしまうのだから。

こんな現状を作り出したゲーム会社は
社会的責任について、どう考えているのだろうか。
責任を果たす気はあるのだろうか。

脳を鍛えるゲームをいくら作っても
身体を動かすゲームをいくら作っても

そんなことじゃ
まったく償いにはなってない。

犯している罪は重すぎる。

将来を担う子供たちから
大切な大切な身体感覚を奪っているのだから。

アメリカではタバコ会社が
多数の喫煙者の健康を害したとの理由で
天文学的数字の賠償金を払わされている。

だったら…
ゲーム会社の子供に対する罪は、その比ではないはず。
子供は「これから」の存在なんだから。

それは子供の将来だけでなく
社会の将来を変えてしまう、重大な罪だ。

タバコの比ではない巨額の賠償をすべきだ。
ゲーム会社なんだから
賠償はゲームでしてもらってはどうか。

全国各地のすべての町内に
体力養成型のゲームを備えた
「体力ゲームセンター」を開設してもらう。

開設費も運営費もすべてゲーム会社負担。
町内の人はみんな
ゲームをしながら、体力増強する。
健康になる。
融和する。

ゲーム会社も自身の強みを十分に生かして
この上ない社会貢献ができる。
存在意義をアピールできる。

そのくらいしたっていいはずだ。




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意識の高まり。

環境ISOについての新聞記事。
要約すると以下のようになる。

環境ISOの認証を更新しない自治体が相次いでいる。
理由は認証維持コストがかさむため。
紙の使用量の削減など、一定の効果が見られたため
自己宣言でも効果は維持できる。
環境ISOに賛同する人たちからは
民間への波及の恐れ
せっかく高まった環境意識の低下の恐れ
が指摘されている。
(以上)

気になるのは
「民間波及」と「環境意識低下」
のところ。

「民間波及」の意味するところは

官がISOを取れと言ったから取ったのであって
官が更新しないのなら、我々もしない

ということ。
「環境意識低下」の意味するところは

ルール、マニュアルが無くなるのなら
廃棄物削減も、省エネも持続しない、できない

といことである。
つまるところ、
ISO的な「縛りがなければ結果は出せない」
ということであり

意識の高まり」など
実は、もともと期待されていないことが見えてしまっている。
官が考えていたのは
「縛りで効果を出す」
ということであり、環境意識を高めることではない。

意識の高まり、と見えたのは
環境に対してではなく
ルールから逸脱することに対する意識である。

みんなが守っていることから外れるのは嫌だ
ということであって

環境の一部である人間を意識したものではないだろう。

それは、外発的動機付けに過ぎず
内発的動機付けは、ついになされていない。


環境問題は
あらゆる人を巻き込まなければ解決しないものである以上
縛りで人を動かす必要性は、大いにあるだろう。

しかしながら
「まず、縛り」になっているところが効果の持続性への
可能性を閉ざしている。

信じられているという実感が弱ければ
裏切ることへのハードルは低い。

信じることから始めたい。

痛い目にあうからやらない。
ではなく
○○○を実現したいから、やらない。
でありたい。








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数値は目標か?
目標はできるだけ数値化しましょう。
でないと、達成、未達成が判定できませんから。

と、よく言われます。
学生の時から「点数」を競っているわけですから
心のどこかで違和感を感じながらも
社会では、この「わかりやすい」目標管理制度が
主流になっています。

しかし
この「わかりやすい」目標管理制度のもとで
何が起きているか
は、よく振り返るべきです。

そこで起きているのは

すべてに優先する数値の追求

です。

企業であれば
月末、期末の「売上げ作り」
どんなことをしても数値を達成しようと
あらゆる仕事を「換金」しようとします。

この時の判断基準は
数字になるのか、ならないのか?
であって、決して
やりたいか、やりたくないか?
ではないし
意義があるか、貢献できるか?
でもないのです。

すべての企業、あらゆる場面でそうだ
とは言いません。
が、期末の追い込まれた時、多かれ少なかれ
信じていたはずの理念や方針は脇にどけられ
数値を達成するための手段に対する判断基準は甘くなり
数値を血眼で追うのです。

ここで考えなければならないのは

売上げの数値こそが
テストの点数こそが
成し遂げたい、成し遂げるべき目標だったのか?

ということ。

これは、断じて「NO」です。であるべきです。
企業に社会性、精神性が求められる
知識社会において
売上げ数値こそが目標である
などと思っていたら、市場からの退場は間近です。
テストの点数が高いだけの学生が
社会から期待されていないのは、言うまでもありません。

では、常に追い求めるべき目標は何か?

それは
自分たちの信じる価値を社会に広める
であったり
その価値自身を高める
であるはずです。

「売る」とは
信じる価値を世に問う、「布教」に近い。
「高める」とは
より信じられる価値を見出す、「修行」に近い。

そう、思います。

数値化された目標はゴールではありません。
それは単なる指標。

何キロ走ったか
が問われるのではなく
走ることで、何を世に問うたか?
走ることで、何を身につけたのか?
が問われるべきです。

企業が期末に売上げに血眼になる姿は
学生がテスト前日に徹夜で丸暗記し、点数を確保する姿
に重なります。

テストが終われば、すべてを忘れ
何も身についていない。
何のための勉強でしょう。
決して点数という数値が目標ではないはずです。
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