京都に行ってきました。
場とつながりラボhome's viプレゼンツ
人づくり・まちづくり・場づくり最前線
「自分という自然と出会う〜ワークショップの可能性と留意点」
講師は。。。中野民夫さん。
中野民夫さんと言えばワークショップ
ワークショップと言えば中野民夫さん。
中野さんの書籍はいつも読んでいて
その語り口、さりげないたたずまいから
とても刺激を受けていました。
その中野さんが、目の前に。
でも、やっぱり、というか、さすがというか
ただ、ただ、自然に
その時、その場に、いらっしゃいました。
その「あり方」を感じられただけでも
大きな学びでした。
午前中は
身体を整え、息を整え、気を整え
昼食は
食べる瞑想として、じっと味わい
午後は
参加したみなさんと語らい、探し、見つけ
とても豊かな時間を過ごすことができました。
自分にとって大きな課題、方向性を
いくつか見つけることができました。
今、ここに寄り添う
自然なあり方ができるファシリテーターになろう。
そんな気持ちを強くしました。
そうそう
念という字は「今の心」と書くことを
中野さんに解説され、ハッとしました。
これからは
「念力」を磨く決意もしました。
素敵な時間をくださった
中野先生
home's viの皆さん
ありがとうございました。
陸上競技シーズンが終わって
2週間ほどオフにしていました。
トレーニングをいっさいせずに
シーズン中と比べたら、緊張感なんか全然ない生活。
仕事の緊張感はもちろんあるんですが。。。
気づいたのは
仕事の緊張感にくらべて
陸上競技の緊張感の方が密度が高いというか
それがなくなったここしばらくの間に
心身ともに、かなり緩んだようです。
この緩みは、残念なことに、いい方に作用していなくて
ちょっとした動作で、あちこちに痛みが出ます。
どういうことかというと
「気」が分散してしまっていて
心身がうまく統合されていない状態なんです。
緩むときでも
気の根っこを、しっかりと臍下に落ちつかせ
そこから全身をコントロールする感覚は
失ってはいけないようです。
緩めるとは
全部をダラダラにすることではなく
例えるなら
操り人形の、糸の起点はしっかりと持ったまま
それぞれの糸を緩める、という感じでしょうか。
また、心身をギュ〜っと絞っていきます。
冬期トレーニングの開始です。
福井県経営品質協議会主催
人づくり実践研究会の第3回目でした。
タイトルは
「そうぞうりょく?〜願うチカラ、生み出すチカラ〜」
想像力と創造力が
どこから生まれる、どんなチカラなのかを
仲間とのそうぞう活動(コラボ)を通じて
探求する時間にしてみました。
ファシリテートするに当たっての
今日のテーマは「閉じて、開いて、また閉じて」
想像も創造も
ひとりで孤独にするものではなくて
自分と対話する「閉じた」時間の次には
それを仲間とわかちあう「開いた」時間があってこそ
触発による想像の飛躍や創造が生まれるはず。
さらには
そこでの気づきを自分に取り込む「閉じた」時間を
持つことで、さらに熟成された想像と創造
言い換えれば、現実を変えうるチカラが
生まれるはず、という仮説を持って臨みました。
今まで最も伸びやかにそうぞうした体験を
内省したり、語り合ったり
そこでの学びを探しあったり
さらには、それを高校生に教えるとしたら
どんな科目になって、どのように教えのか、とか
それぞれの科目を持ち寄ったら
そこに生まれるのは、どんな学び舎か、とか
みなさんと一緒に、遊ぶようにそうぞうの時間を
過ごさせていただきました。
戸惑いながらも、苦笑しながらも
そうぞう活動に参加してくださり
ありがとうございました。
みなさんの気づきが
会場に閉じたままに終わらずに
これから外の世界に開いていくことを
祈っております。
ひとつのワークショップは
いろんな方々のご協力をいただいて成り立ちます。
どんなに小さなものでも。
開催告知、会場設営、文具類用意、申し込み受付
記録、運営サポート、ご協賛などなど。
そして、何より、参加者の皆さん。
このような皆さんのご支援の中で
ワークショップデザインとファシリテーションを
担当する僕は、なんとなく中心に近い位置にいることになります。
企画して進行するわけですから
それは、そういう必然として。。。
で、そこで、しっかり自覚しないといけないなぁ、と
いつも反省させられる心境というものがあって
それが、感謝と自尊の境目です。
中心的な役割を担うと、どういうわけか
「自分がやらなければ」「自分にモレがあってはならない」
という心境になりがちで、そういう時に
「○○もやっておきましょうか?」とか
「じゃ、○○まで手配しておきます」とか
僕が全然気づいていないことを
スタッフの方が気づいてくださって
先回りして動くという場面で
一瞬、自分が恥ずかしくなったり
「あぁ、ミスったなぁ。鈍かったなぁ」
と反省モードに入ったりすることがあります。
反省は多いに結構なんですが
この現場で、その瞬間で起きる反省は
えてして「中途半端な自尊心」由来で
それは、あってはならないものだと考えています。
この場合は、「反射的に感謝モード」になることで
コラボレーションの温度が上がっていくものだと
体験的に知っているからです。
間髪入れず「あ、ありがとうございます。お願いします」
と、何のためらいも反省も自尊も交えずに
ストレートに感謝して、お願いするというキャッチボールが
共鳴的に広がっていく。
「自分ができないといけない」「自分はできなかった」
「ミスした」「恥ずかしい」などという
中途半端な自尊心が、現場で一瞬でも混じると
この感謝とお願いのキャッチボールが、微妙にタイミングがずれて
コラボレーションの温度があがりきらないまま進行します。
これは、対参加者(受講者)の皆さんにも言えて
ファシリテーターが引っ張らなければ、引き出さなければ
と思いすぎると、沈黙が恐くなって、かえって無駄なことをする
という悪循環になります。
参加者と一緒に創っていく
参加を感謝して、さらなる参加を期待する
そんなスタンスが場を共鳴させていくんだと思います。
要は、自分が共鳴しやすい脱力系の心身になって
その場に自然に「居る」ということですね。
中途半端な自尊心は心身を固くします。
原子力発電について
その現場を支えている当事者/責任者の方々と
一般市民が少人数で対話して相互理解を深める
「げんでんネクサス」という会に
ふとしたご縁で2年間参加させていただいておりました。
僕は原発に賛成でも反対でもない
「よくわからないんです」という無責任なスタンスでした。
が、2年間、あれこれと勉強させていただく中で
ようやく、その必要性とリスクについて
自分のものにできそうな理解を手にすることができました。
一方で、理解が深まったから
積極的に行動するか、といったら
それはそれで別の問題が、自分の中にあります。
正しいことを正しいと発言する
危ないことを危ないと発言する
必要であることを必要であると発言する
思いを他者に向かって公言することは
必ずしも、理解の深さとは相関しない
理解しているからといって、対外的に行動するわけでない。
なぜなら
他者とその集合体であるコミュニティ、そして社会の
空気を読んで、その結果で判断するからです。
要は、自分が「浮き」そうな発言はしない。
もちろん、信念に忠実な方もいらっしゃいますが
そうでない方の方が、おそらく多い。
エネルギー問題のような地球レベルのテーマは
少人数の信念に満ちた人に解決を任せることはできません。
ごく普通の
「臆病さ」と「無責任さ」という「常識」を持った人が
よってたかって意識を向けないと解決しない。
ここでいう臆病とか、無責任とかは
決して否定的な意味ではなく
そういう感覚が誰にもあるということを認めた上でなければ
全員参加の問題解決などできない
という現実的な意味です。
私たちは
意見を言う前に空気を読みます。
空気に抗う発言を避けようとします。
空気に抗う発言を受け入れ難く感じます。
であれば、すべきことは
正しいことを正しく知ることと同じく、いや、もっと前に
私たちは、何を感じているのか
をわかちあうことだろうと思います。
現代の社会問題は、おそらくすべて
極少数の信念の人、極少数の専門知識人によって
解決することは不可能でしょう。
全員の意識を集めることが必要。
であれば、これからの問題解決プロセスに必要になってくることは
そして、これまでは必要とされなかったことは
正しさの前に感情を共有する
何についてどう感じているのかを共有する
その後に、そもそも何が私たちにとっての問題なのかを考える
というものでしょう。
そこには分析も論理も正邪もありません。
なんとなく漂っている場の空気を共有することで
反対のための反対
批判のための批判
肯定のための肯定
といった武装された意見ではなく
生身の意見を交えることができるようになるのだろうと思います。
福井経済同友会の
企業経営委員会/次世代イノベーション部会にて
アドバイザーを務めさせていただいております。
普段は、2ヶ月に1度の部会活動において
その時のゲスト講演者の後を受けて
20〜30分、長いときは1時間程度の質疑の時間を
ファシリテートする、ということが多いです。
30分もあれば、いろいろできますし
ゆったりと構えて、務めさせていただいておりました。
が、今日は、制限時間5分。
福井新聞社の吉田専務の講演を受けて
残り5分間の質疑、という段階になって
突然、「お願いします」という「無茶ブリ」をいただき
なんだか、わけのわからない状態で
勢いで乗り切った(のかどうか怪しい。。。)という状態でした。
その時になって初めて
会場全体の皆さんのお顔と空気を感じ取ったわけで
そこから5分間のファシリテーションというのは
とても難題でした。。。
とても巧く務められたとは言い難いのですが
そのかわり、追いつめられた分、制約が厳しかった分
多くの気づきを得られました。
なるほど
一瞬で対応するというのは
こういうことが必要なのか、と。
まだ、うまく言語化できませんが
たしかに、感じ取りました。
走る練習にも
ダッシュしたり、ジョギングしたり
いろんな刺激を積み重ねて
速くなっていくのと同じように
ファシリテーションも
いろんな刺激/制約を受けることが効果的で
特に、今日のような、ありえないくらい厳しい制約を
真っ正面から受けとめると
すごい大きな学びが生まれる、ということを感じました。
これから、僕にお仕事/課題を与えてくださる皆様。
どうか、ありえなくらい厳しい制約条件を
与えてください。
きっと務め上げてみせます。
日々成長する決意を固めた5分間でした。
福井経済同友会の皆様
無茶ブリをいただいた日華化学の江守社長
ありがとうございました!
性格が
明るいか、暗いか、とか
前向きか、後ろ向きか、というのとは
少し違って
何か、根拠はわからないけれどチカラを感じさせる人と
チカラを感じるどころか、減退させるチカラを発揮するタイプ
がいるように思います。
もう少し言い方を変えると
常に何者かになろうとしている、その可能性を感じさせる人と
評論家的に一歩引いて、傷つかない立場から出てこない人
とでも言いましょうか。。。
僕は前者でありたいと願いつつ
後者になってしまいそうな自分と格闘する
という毎日を送っております。
で、前者と後者の分かれ目、根本的な違いは何か
と考えると、結局、単純な答えに行き着きます。
自分は、きっと「できるようになる」
という未来志向、可能性志向があるかないか、です。
自らをリスクに晒さない評論家的スタンスに立ってしまう人は
自分は、もはや、「今以上にはなれない」という諦めがあって
それと対面することを無意識にさけることによって
結果的に評論家になるようです。
幼児は、万事にわたって
「いつかできるようになる」と考えます。
で、かなりの確率でそれが実現していきます。
何しろ、最初は、何にもできないわけですから
できることが増えるのは当然です。
ところが、大人は
脳細胞も、身体能力もピークを過ぎますから
テストやスポーツの能力は上がりません。
というわけで「いつかきっと、できるようになる」という
未来志向を持つことが困難になって
評論家的な生き方への引力が高まる、という構造だと思われます。
ここで考えをやめると、単なる悲観的仮説ですが。。。
私にはできないけれど
私たちにはできるかもしれない
という協働志向は、大人の方が熟達する可能性があります。
コミュニケーション能力は年とともに高まるという道もあるからです。
もちろん、年とともに、下がっていくケースも多々ありますが。。。
私は、もはやできるようにならない。
という悲観を
私は、誰かとつながったら
きっとできるようになる。
という楽観へと反転させるプロセスことが
チカラを感じさせる人
何者かになろうとしている人に内在する
見えない大きな違い、ではないでしょうか。
ファシリテーターとしての個性というか
スキルの奥底にあるマインドの色というか
そういうものは、いわゆる「勉強」「研修」を通じて
身につけたものではなく
ふたりのアーティストが光源となって
大きな影響を、今ももらっていることを
感じています。
作家/コピーラーターの「中島らも」
そして、映画監督/脚本家の「クエンティン・タランティーノ」。
脱力して間を置く。
混沌とした組み合わせを楽しむ。
本家本流を疑う。
言葉にすると、そのような姿勢を
膨大な作品群を通じて
僕に染み込ませてくれた方々です。
定期的に彼らの作品に触れたくなる時期がやってきて
今、そういうバイオリズムみたいです。
アートを光源に仕事を輝かせるエネルギーをもらう。
これは、僕の流儀かもしれません。
アートに関係ない仕事をしていても
アートの光を浴びせてみると見えてくるものがある。
そういう思考スタイルをとっています。
しばらく
らも&タランティーノ期間にします。
そういえば、タランティーノの新作が公開されてますね。
イングロリアル・バスターズ。
楽しみです。
とある裁判で
被告がちゃんと質問に答えない(と思える)姿勢に対して
裁判員が「むかつくんですよね」と発言して
裁判官に制止された、という報道を目にしました。
裁判員制度は
司法の世界に一般市民の感覚を取り入れる
という意図で導入されています。
このような「むかつくんですよね」も
その意図の範囲内と受けとめるべきなんでしょうか。
犯罪者であることが濃厚な被告は
裁判員から「むかつかれて」も良いのでしょうか。
なんだか、ひっかかります。
被害者が「犯人に、むかつく」(どころではすまないことが多いですが)
ことは、ごく普通の、市民感情だと思います。
けれども、何の利害もない裁判員が
「むかつく」という現象には
陥ってはいけない心理があるように思えます。
ましてや、有罪確定前の被告に対してなら、なおさら。
裁判員という「強さ」と「無関係性」が絡んだ立場だからこそ
「むかつき」の感情を自分に許容することは容易なことであり
だからこそ、自分を戒めねばならないことだと思います。
強さと無関係性(第三者性)が絡む時
その視点は、マスメディアの報道姿勢に極めて近似しやすくなります。
それは、野次馬感覚にすぎません。
もし、自分にそれを許せば
市民感覚とは野次馬感覚と同次元になってしまいます。
しかし、市民の感覚で人を裁く、ということは
このような次元でなされるべきことでは
もちろんありえないでしょう。
信じるべき市民感覚があるとすれば、それは
できうる限りの情報を理解した上で
自分の生活感覚の中で熟考した時になされる判断
というものだと思います。
それは、決して
その時、その場で生起した「自然な」感覚という名の
「野次馬感覚」、または「上から目線の感覚」ではないはずです。
その後の記者会見では
「むかつくんです」発言をした裁判員の方は
一時的に感情的になっていたことを認め
裁判官に制止されて良かったと発言していました。
この会見と報道がなされたことは
裁判員制度にとっての、社会的な省察の機会であり
本当に良かったと感じました。
今朝、4時半頃でしょうか。
地鳴りがしたなぁ、と思ったら
グラグラグラ。。。
若狭湾が震源で震度1。
たいした地震じゃなくても
若狭湾が震源だと、やっぱりヒヤリとします。
日本で一番、あ、世界で一番?の
原発集中地帯ですから。
何かあった時に
何を守り、何を捨て、どこへ向かうのか。
そういう指針みたいなものを
自分の中にしっかりと持って
生きていきたいなと思っています。
揺らぎの中で
揺らぎを吸収する柔軟性と
揺らがない強固さを両立する
そんな自身の持ち方、自信の持ち方をしたい。
五重塔のイメージです。
