発創アリ。

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リニューアルオープンのお知らせ




このたび、「発創アリ。」は
下記に引っ越しし、第2章としてリニューアルオープンいたしました。


発創アリ。第2章http://ameblo.jp/hassou-design/


まだオープンしたてで、品揃えも何もありませんが
ボチボチと仕入れていきますので
これまでと変わらぬご愛顧を賜りますよう
お願い申し上げます。


店主 冨永良史


FC2版(第1章ということになります。。。)は
このまま残しておきますので、ご入用の際はご自由に入店くださいませ。

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 出来事・日記 コメント(5)
新装開店に向けて一時閉店




日頃から、発創アリ。をご愛顧いただき
ありがとうございます。


当ブログを開設して3年の月日が流れました。
細々と続けてきましたが、それでも
3年のうちにかなりの思いが積み重なりました。


今年に入って、急に
この思いを一度、整理してみたい衝動が湧いてきました。


今まで何をどのように感じ、考えてきたのか
自分なりにふりかえり、理解しなおし
今の自分の言葉であらためて語り直したい、と思います。


そこで、急ではありますが
このブログを、本日をもちまして閉店とさせていただきます。


しばらく時間をいただいた後、新生:発創アリ。を

店舗移転(FC2から、別のブログへ引っ越し)して
1月10日にオープンする予定です。

このFC2版の発創アリ。も記録として
残しておきますので、引き続きご利用いただけます。


その節は、変わらぬご愛顧を賜りますよう
よろしくお願い申し上げます。


では、また
近日中に、新装開店のお知らせを
このブログの最後の記事として公開させていただきますので
それまで、今しばらく、お待ちくださいませ。


平成22年1月4日
店主 冨永良史

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新年に願いを




新年、明けまして
おめでとうございます。

今まで出会ってくださった皆様
これから出会うであろう皆様

その時、その場に現れた
偶然と必然の糸で織られた時空を
ともに味わえますように。


対話の祝祭化、イベント化ということを考えています。
何かを成し遂げるための手段としての対話ではなく
対話そのものにある喜びを味わう場をデザインしたい。


そのきっかけになりそうなプロジェクトが
いくつか舞い込んでいます。

光が射してくる方を仰ぎ見て
その明かりで自分の心を照らし出し
その熱で心を膨らませ、育て
自ら熱を発し、人とつながっていきたい。


新年を迎えた、今、この場での願いです。

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年の瀬に想いを


今年の手帳の1月のページを眺めると
遠い過去の出来事のように思えます。


新しい、思いがけないことに満ちた一年でした。


何か、新しいことが起きると
それは、以前から脳裏を去来していたことだった
という既視感に包まれる。


そんな体験が多くありました。
僕の脳が、自分の行動だけでなく
これからやってくる出来事についても
先取りしているような感覚があります。


年頭に手帳に記した
今年、近年中に自分が実現するであろう「予言」
を読み返すと、いつの間にか実現していたり
カタチを変えて実現していたり
確かに実現に近づいている手応えを感じられたりします。


サボり屋で、忘れっぽい僕のことですから
ずっと実現を願っていたわけでもないのですが
不思議なものです。


思いが行動を生み
行動が他者への働きかけを通じて出来事を紡ぐ。
であるなら、思ったことと、起きることに相関があるのは
当たり前と言えなくもないのかもしれません。


思いの強さはリキミを生むこともあります。
他の景色を見えなくしてしまうかもしれません。
うっすら覚えている、でも、ずっと願っている。
その程度のチカラの抜け具合がいいのでしょうか。


先行き不安なこと、恐いこともありますが
そこに目と心を奪われずに、すんなりと
今、ここに、立っていたいと願います。


深々と降る雪の、音にならない音を感じながら
今、この瞬間、静かな気持ちで
暮れ行く年に思いを馳せていられることは
何より幸せなことです。


今年も、たくさんの皆さんに出会い、触発され
思いがけない時を紡ぐことができました。

すべての出会いに心から感謝します。
ありがとうございました。

残り少ない今年、この時、この瞬間のすべてが
これまでに感謝し、これからに期待する
最良の時になりますように。

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犬の教えは




我が家の愛犬は
あまりオツムが優れている方ではなく
物覚えは悪いし、言うこと聴かないし、きゃんきゃん吠えるし

でも、なんとも言えない愛嬌と素直さがあります。
とても素朴な性格です。


散歩にいくと、ちょっとリードを緩めて
遠くにいけるようにしてやることがあります。
こちらに時間がないときは「さっさと戻ってこい!」と
イライラするのですが、そういう時に限って、知らんぷりして
あちこちウロウロ、まったく戻る気配なし。


どうでもいいから好きにしておいで、と放置してる時には
そのうち、愛犬の方から、こっちの顔色を見るようになり
えさをかざして「戻っておいで」と言うと
一目散に駈けてきます。


始めからこちらの言いなりにしようとすると、知らんぷり。
好き勝手させた後なら、一目散。


こちらの願いを通そうとしたら
相手の欲求を満たしてあげることが先。


なんてことを、彼は教えようとしてるんでしょうか。。。


。。。そんなわけないですね。
何にも考えてないから。彼は。。。
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余命を思うと




16年前の今日、国民的な人気を博したアナウンサー/司会者が
48才の若さで、ガンでなくなったことを
先ほど、テレビ番組で知りました。


黒沢明監督の「生きる」に自分を重ね
「命みじかし、恋せよ乙女」と歌っていたとか。


自分が余命について考えるには
「まだまだ若い」と思っていて
でも、心のどこかでは、「いつ何があるかわからない」
とも思っています。


「まだまだ若い」の根拠は
90才になっても元気な祖母を日頃見ているから
というのが一番大きいです。


祖母の年まで、あと52年もあります。
これまで生きてきた年数よりも、遥かに長い時間が待っている。
であるなら、余命なんて、と思えます。


一方で、先ほどのアナウンサーの件に触れると
「いつ何があるかわからない」という思いが頭をもたげてきます。
20代でなくなる人だって、少ないけれど、確かにいます。


病だけが死因ではないし。



「まだまだ若いから」と「いつ何があるかわからないから」の間には
生きることと時間の流れに対する考え方に
大きな隔たりがあるように思えます。


「若いから」という考えは
生きるとは「時間の積み重ねである」という前提に支えられ

「何があるかわからない」という考えは
生きるとは「今、この瞬間に命を燃やすこと」が前提です。


若いが故に
半永久的に流れていくような時間感覚の中では
「今この一瞬」を掛け替えのないものと捉えるのは
困難を伴います。


無限に思える時間があるからこそ
夢を描ける、けれど

冷徹なまでに有限だからこそ
今このときを燃やそうという気持ちが生まれる。


両親や祖母や、なくなった祖父を想い
これから時を過ごす妻や娘を想う時

無限と有限の間に
橋渡しがなされるように感じます。


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どっちへ踏み出す




大きなお仕事のご依頼をいただきまして
さてどうしたものかと思案しています。


「大きい」の意味は
人数や作業ボリュームではなく、お金でもなく
魅力と可能性と重さ、です。


いつものごとく、突然、光が射してきて
その光の照らす地表が、少し僕には広すぎて
どっちに一歩を踏み出そうか、迷います。


大志を抱きつつ、こじんまりと踏み出し
独り思いを温めつつ、外に開き、関わり
どっちに転ぶかわからない偶然の中を楽しんで歩んでいこう
と思います。


詳細は、またいずれ。


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誠実になるのは



誠実とは、辞書によれば
「私利私欲を交えず真心を持って相手に接すること」
とあります。


さらに、真心とは
「真実の心。噓や虚飾のない心」
です。



「真実の心の中に、私利私欲を交えない」などという心境が
果たして可能なのか、ということを、ふと考えました。


僕の真実の心の中は
私利私欲で満ちています。

自我とは自らに対して「ありたい姿」を望むことで
成り立っているはずです。
それ抜きに、自我は、心は存在しえないのではないでしょうか。


であれば
自分の欲求を正邪を問わず正面から受けとめること。
それこそが「誠実になる」ことの始まりではないか。
相手に誠実になるのは、それからの話ではないか。


そう思いました。


自分の私利私欲と向き合わない真心とは
それはつまり、偽善だろうと思うのです。



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渦中にて



ついさっき、NHKで金融資本主義についての番組を
ほろ酔い加減で観ていたら、元ウォール街のエリートだった人が



問題は、ふりかえってみれば、いつも単純に見える。
ただ、渦中にいるときに、それを理解するのは難しいね。



といった意味の発言をしていました。


その通り、と深くうなずきました。
渦中にいるときに、今このときの危うさが理解できれば
人は、同じ過ちを何度も繰り返さない。


なんで、渦中では見失うのか。
この問題の答えは、単純に思えますが
きっと、まだちゃんとした答えが出ていないのだと思います。


渦中にいる自分とどう向き合うか。

渦中にいる時には、渦中だということがわかりませんから

この問いは、すなわち


今、このときの自分とどう向き合うか


と翻訳されねばならないでしょう。


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信じてこそ。




夢を描き、科学的、論理的に分析して
その実現に向けた行動計画を立てることは
どれほどの意味を持つのか、と考えます。



その分析の緻密さゆえに
計画への過信、または義務感が生まれ
計画厳守こそが、夢の実現への道だと思い込んでしまう。
もっと不幸なら、計画厳守が夢にすり替わってしまう。


信じるべきは
分析や計画の緻密さではなく


その夢を「どうしても実現したい」と願う
自分自身の心の熱気であり

その夢の「実現してしまっている状況」を描ける
自分自身の想像力だと思います。


分析や計画を軽視するつもりはなく
それらばかりに目を奪われ
本来、夢の実現にもっともチカラを発揮するはずの
自らの精神、思考のありようについて考える時間、場面が
あまりに少ないのではないかと
社会と、そしてもちろん自分自身を省察しています。


泥遊びに没頭している子どもの脳裏には
「できるだろうか?」「締め切りはいつだろうか?」
などという迷い、不安はなく

ただただ、「・・・のように作りたい」という熱情だけが
存在しているのではないでしょうか。

もしかしたら、それすらもなく
「ずっと、この泥に触れていたい」という無我の状態
なのかもしれません。


不安が増す社会において
どのように問題を解決すべきなのか
という分析、論理、計画ばかりに目が向かいがちです。


泥遊びの子どものような目線を
忘れたくありません。
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