発創アリ。

2009 11
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「正しい」人。



対話してみると
自己の中に閉じている人には
2種類くらいあることがわかります。


ひとつは
完全に思い込みの世界に閉じていて
そこから出てこない人。


他方は
一歩引いたスタンスを取って
客観的に正しい言葉を紡いでいくだけの人。

これには、わりと技量が必要ですが
もう少し初歩的だと

教科書を読み上げるかのように論理的に
借りてきた論理を切り貼りする人、というパターンもあります。


いずれも、自分にバリアーを張って
傷つくことから過剰に守っていることにかわりはありません。
プライドが脆弱に高い、というアンビバレントな状態です。


守るための戦略は
「正しさ」を掲げることです。
しかも、きわめて狭い意味での、または表層的な意味での正しさを。
そんな正しさをバリアーにして、自己を揺らぎから守ります。

自己を守るための「正しさ」は
対話にとって阻害要因です。
そんなものは仮説でしかあり得ないという
不安定さに耐える強さに支えられてこそ
より強力な仮説へとたどり着く対話が可能になります。


「正しい」人が
「間違いな」人であることに耐える「強さ」を
身につけることが必要であることは

実は、当人が一番、知っているような気もします。

なぜなら、知っているからこそ
その恐さに向き合えない「弱さ」を露呈しているわけですから。


そこが、やっかいなところです。

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感性ってなんだろう。

昨日のロジカル論?の続編。
ロジカルと、その反対の感性、情緒の関係についてです。


言葉とは、意味的な区分を主機能としているのだから
言葉を使う人間は、ロジカルにならざるをえない。
なぜなら、ロジカルの主機能も区分にあるから。


のようなことを昨日、書きました。
例によって、わかったようで、わからない文章というか
わからないようで、わかった風にも読める文章というか。。。


わかりきったことなら
わざわざ書きませんから
自分に問いかけながら書いてます。
基本姿勢は、自分に閉じず
内省しながら開く、です。


さて、というわけで、ロジカルにならざるをえない
という考え方は、わざわざロジカルシンキングなる講座を
受講される方には、なんとも受け入れがたい主張です。

そんなんだったら苦労しない。
努力しなくてもロジカルになれるなんて、と。


この、もっともな矛盾をどうしようかと
あれこれ考えています。


ロジカルであるはずの言葉を使いながら
何を言ってるのかよくわからない、非ロジカルな人は
感性とか情緒とかの意味を取り違え
その感性に邪魔されている。


と、考えてみました。


感じたままを伝えるのが大切なことで
それを言葉にのせれば伝わるはず。
そんな前提でコミュニケーションすると
わけがわからない喋りになってしまいます。


感じたありのまま=感性、情緒


では、ないはずです。
なぜなら、そこには
自分勝手な論理が紛れ込んでますから。


言葉を使う以上、人はロジカルですから
自分勝手な論理を抜きに「感じる」なんてことは
実は至難の業だと思います。

論理、しかも狭い意味での論理のフィルターを通した「感性」を
伝えるべき価値のある、瑞々しいもの、と捉えると
単なる自己中な人、わけわからない話してる人、になります。


というわけで、まず鍛えるべきは
自分の勝手な論理、要するに思い込みを自覚して
あれこれ論を展開するまえに、脱力して感じること
そのための、感性トレーニングをすること
だと思います。


とりあえず、今、自分が何をしているのか?
を感じ取る練習してみると
どれくらい自分の「感性」が「勝手な論理」に邪魔されてるか
よくわかります。


多くの場合
何かしながら、他の何かを考えていて
その瞬間に没入していることは稀です。

感性とは没入から生まれるはずです。
だったら、没入できていない今、感じていることが
伝えるべき価値あること、である保証はどこにもなく
勝手な思い入れに過ぎない可能性の方がずっと高い
ということになります。


ロジカルであるはずの人間が
ロジカルを学ばなければならない理由は
自分勝手な論理を感性と錯覚し
その感性を伝えるべきこと、と錯覚してしまうから。
今日のところは、そう考えています。


要するに
自分勝手な論理を自覚することが
感じること、考えること、伝えることの前提にある
と言えそうです。
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ロジカルってなんだろう。



近々、ロジカルシンキングについての講座を
担当しなければならないので
ロジカルとはどういうことかについて
あれこれ考えています。


僕は自分に対して
ロジカルであろうという欲求から
意識的に遠ざかるように仕向けています。


ロジカルであることが
嫌いだからです。

正確に言うと
ロジカルであることの欲求には
油断すると簡単に負けてしまうからです。


だからといって
ロジカルであることが
不要であると考えているわけではありません。


ロジカルでなければ
伝わらないことが、あまりに多くありますから。


一方で、ロジカルであるが故に
すくい損ねてしまうことも、多くあります。


人は、言葉を使う以上
ロジカルであることを避けられません。
なぜなら、言葉とは
あるものから、あるものを意味的に切り取る、区別する
という機能を基本にしていて
それこそがロジカルであることの基本だからです。


放っておいても、人はロジカルな存在です。
そして、だからこそ、ロジカルとは
不完全な認知形態であることを、どうしても忘れてしまいがちです。


ロジカルに詰めていけば
いずれは真実にたどり着く、とか

ロジカルであることは
必ず正しい、とか

そんなことを思ってしまいがちです。
でも、真実や正しいことだけを語ろうとしたら
人は、何も言うことができません。

ロジカルとは、言葉の裏に隠された
「単なる約束事」、でも「精密な約束事」の体系
に過ぎないからです。

それは、ひとつの約束事の中で「正しい」と言える
ということに過ぎないからです。


だから、本当に正しいことをロジカルに表現する
などということは、できません。


正しいことは言えない、という前提を
ちゃんと理解した上で
わかりあうためのひとつの手段としてロジカルであることを
採用する、という態度が必要だろうと考えています。


ロジカルと直観では
ロジカルが勝っている、などというのは
ロジカルな態度ではありません。

僕たちにできるのは、せいぜい
「なんとなくロジカルっぽい、正しそうに見える表現だけ」だと
そう謙虚なロジカルさが、必要だと思います。

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必死バリアー。



何事も懸命に打ち込んでいれば
助けてくれる人が現れるものだ。


なんて言い方をして
ひたむきにまっすぐに頑張ることを推奨するわけですが
あんまり度を超して頑張ってしまうと
かえって助けづらい雰囲気を醸してしまう気がします。


頑張り方にもよるのでしょうけれど。


何が何でもやり遂げねば
という思いが、完全に自己の中に閉じている場合
その必死さは、バリアーとして作用するのではないでしょうか。

あの人は
自分だけの力で成し遂げようとしている


と思われた時には
誰も手を貸そうとは思いません。
悪意という意味ではなく
貸せる雰囲気ではないのです。

他のチカラを期待していないという雰囲気すら
発してしまうからです。


手を貸したくなるのは
目的に向かって無心になりながらも
どこか外に向かって意識が開いている状態の人。

私は、これを
なんとしても成し遂げたいと思っています。
これは、みんなでやる甲斐があると思います。
手をつないでもらえませんか。


言葉にすると慈善事業じみてしまいますが
そんな解放系の必死さが
手をさしのべさせるのだと思います。


閉じてはいけない。
必死に開くべし、かな。
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揺るぎなく揺らぐ。



例えば、こんな言い方はどうでしょう。



成長にとって最大の敵は
揺るぎない信念である。


信念あってこその成長というのが
常識的な考え方でしょうから
「ありえない、バカな」と
思われてもしょうがないでしょう。


成長とは
個人の主体性のみによってなされるものである
と考えるならば、信念と成長のリンクは当然です。


しかし、一方
現実を常識的に見れば
成長とは、常に、他者との相互作用の中で
なされるものです。


相互作用とは
お互いに刺激しあって
以前とは違う自分になる可能性を
お互いに許容することです。


そこでは、ある種の「揺るぎなさ」は
阻害要因として作用します。

「私は、●○であるべきだ」

との信念は、揺らぐこと、変化することを
反射的に嫌い、強靭さとは相反する
尊大な保身という、みっともなさへと堕します。


他者との相互作用の中での成長を考える時
そこでは、自分を固定化したものとして考える
狭い意味での信念は、不毛であり

自分は、常に他者との関わりの中で
お互いに変化していくものであり
成長は絶えざる揺らぎの中にこそある
という揺るぎない思いこそが必要でしょう。


あなたは何者ですか?

はい、私は
常に揺らぎの中で学ぶことを
揺るぎなく志す者です。


そうありたいと願っています。
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秘めた目的。



先日の保育士予備軍対象の宿泊研修には
代々受け継がれてきた?変な?ナラワシがあります。


それは、研修に名前がない、ということです。
宿泊研修という名の宿泊研修なんです。


だからといって
宿泊するチカラを高めるための研修であるはずもなく
大学に申請する文書には、ちゃんと
「共生」「出会い」「道徳」とかなんとか
研究者向けの難解な言葉が並んでいます。

でも、それが研修のタイトルとして
学生に紹介されることはありません。


設定された目的のもとに
みんなの意識を向けさせた状態で研修をするのではなく
秘められた?目的のもとに、楽しく出会い、対話していく。
その結果として、目的に対してどんな成果が得られたか
というスタイルの研修になっています。


手段に没頭させることによって
手段そのものの合目的性を確かめる


かっこ良く言えば、そんな感じでしょうか。


全部が終わってから
目的がなんであったのかを
参加者に探求してもらう

終了時に
研修のタイトルをつけてもらう


そうすることで
過ごしてきた時間を
一気に総括的に振り返り
タイトルの一点に向けて、学びを結晶化できる
という効果もあるように思います。


「目的をまず最初に」というのは
あらゆる活動において、大前提とされがちですが
実はそうでもないようです。
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ダメだし志願。



心身の発達と負荷の関係
それから、負荷への覚悟についてです。


運動能力の発達には
筋肉に負荷をかけることが必須です。
それは、日常に受けている負荷と
同じではいけません。


いつもより
長く持続する負荷。
強い負荷。
違った角度からの負荷。


これらを与えることによって
筋肉や、そこにつながる運動神経が
再編成されて、より高次の運動能力が
獲得されます。


ただし、負荷を与えることを
筋肉に伝えないまま、不意うちすると
とたんに故障してしまいます。

ウォーミングアップなしの運動や
運動不足のお父さんが、急に子どもの運動会に出る
ようなものです。


運動能力と負荷、そして負荷をかけることを伝えること
の関係は、知的な発達にも言えそうです。


知的な面において、褒めれば伸びることは確かでしょうけれど
プレッシャーやダメだし(精神的な負荷)によって
伸びることもあります。

ただし、筋肉と同じように
負荷を予測できない場合は
故障したり、または過剰に防衛したり、反撃したり
といったことが起きます。


上司から、いきなりダメだしされて
凹んだり、逆切れしたり、というケースです。

しょうがいない面もありますが
これでは、貴重な成長への機会、負荷を無駄にしてしまいます。


そこで必要なのが
負荷の志願という考え方です。


今からダメだししてください。
私の成長のために、お願いします。


と周囲に志願するのです。
これだと、精神的に覚悟が決まってますから
不意の負荷にはなりません。

筋トレのように受けとめることができます。


私をどう評価していますか?

という中途半端な問いかけでは
内心、プラスの評価も期待してしまうので
負荷への覚悟も中途半端です。
これでは、故障につながります。


負荷を成長へ向けて活用するには
今から負荷を与えるぞ、という告知を
精神や筋肉に与えること。


そしてもちろん
十分な休養、つまり内省とリフレッシュが
必要であることも、筋肉と似ています。
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カタチに逃げる。



東京大学へのお勉強出張から帰って
我が家で、つかの間の夜を過ごした後
朝から、地元の温泉へ。


残念ながら、お仕事。
仁愛女子短期大学の保育士を目指す皆さんを対象とした
宿泊研修です。この時期の恒例になってます。


東京からの移動の疲れが残っていて
ぐったりした状態だったのですが
学生の皆さんを迎えたら
ちゃんとテンションが仕事モードになるのは
我が精神を褒めてあげたいです。


疲れを忘れた(つもりの)テンションで
1日目のワークショップ3コマを終了。
とたんに立てないくらいの疲労を覚えました。


講師陣3人で分担しているので
2日目の今日は、僕の担当は、1コマのみ。
なんとか最後までたどり着いたという感覚です。
本当に疲れていました。


で、感じたのは
疲れなどで余裕がなくなると
カタチに逃げてしまいがちだということ。


ワークショップは
あらかじめフォーマットを決めて
それに従って進めれば
とりあえずの体裁だけなら保つことができます。

でも、それは
学生の皆さんと
一緒に時を紡ぐことにはならなくて
僕の計画(カタチ)に、みんなをはめ込んでいるだけ。
そこに共鳴は生まれにくいのは、当然です。


ある程度のカタチの準備は必要ですが
ワークショップの出発点は、やはり
その時、その場、目の前にいる参加者の皆さんの「気」
であるべきだと考えています。


気を受けとめて、自分の中に浮かぶ想いを発し
みんなからのリアクションをさらに受けとめ
その繰り返しで
やんわりと準備したカタチの中に時間を紡いでいく。

そうあるべき、だと考えています。


ところが、自分に余裕がないと
気のキャッチボールを端折って
いきなりカタチに従って進行しようとしてしまう。


今日の僕は
そういう状態になりそうな自分と戦いながら
ギリギリでファシリテートしていた気がします。


学生の皆さんにも
違和感が伝わってしまったんじゃないかなぁ。
申し訳ないです。ごめんなさい。


今回の宿泊研修は3年目になることもあり
自分の中で2つのチャレンジ課題、トライアルを
設定していました。

ひとつは、初日で、まずまず成功で
今後の発展への自信を持てました。

もうひとつは、今日で、反省、反省、反省です。
課題をいっぱい見つけました。
これも、発展への契機だと思って
向き合います。

あぁ、がんばろ。


 実績 コメント(0)
ワークプレイスラーニング2009。



東京大学で開催された
「組織」と「学習」に関する産学協同シンポジウム
ワークプレイスラーニング2009


に参加してきました。
東大の門をくぐったのは、学生時代以来15年ぶりくらい。
何年たっても、やっぱり東大は東大。
アカデミックな気、オーラ、イオンが流れてますね。


ワークプレイスラーニングとは
研修による学びと成長だけではなく
働く場そのものを学びの場に変えた方が
成長、発展に結びつきやすいという考え方です。


よって、このシンポジウムも講演者からの一方通行ではなく
ケースの紹介は、あくまでも学びの素材として提示され
それに学者の皆さんがコメントや問題提起を加えた上で
1200人の参加者が一斉にご近所さんとディスカッションし
メールで質問を送信するという双方向、会場全体での探求の場でした。


企画の中心であり、当日の進行を担当された
中原淳先生の言葉を借りれば

従来型の一方通行型が
「聞く、聞く、聞く、聞く、帰る」
であったのに対し

今回の探求型の取り組みは
「聞く、考える、対話する、気づく、講堂を出て語る」
という、終了後への学びの持続、波及を企図したものでした。


ケースの提供は
カルチャー・コンビニエンス・クラブ
アサヒビール
バンダイナムコホールディングス
と多彩で

担当された皆さんのプレゼンが
それぞれに個性と高い力量と信念に支えられていて
とっても刺激をいただきました。

刺激がさめやらぬ内に気鋭の学者の皆さんによって
様々な切り口で問題提起され

単に「すごいなぁ〜」でおわりそうになっている脳味噌を
「いやいや、そんな単純じゃないでしょ」と揺さぶられ
揺さぶられたままご近所さんと対話する

という構成は、ワークショップの形態としても
非常に参考になりました。


以上は、シンポの手法についての学びですが
内容そのものについても、たくさんの学びがありました。
が、しかし、それは、もうちょっと
熟成するまで、自分のつたない言葉にするのは待とうと思ってます。

脳内に気づきのキーワードが渦巻いていて
まだ、どれとどれが、どのようにつながるのか
自分でもわからない状態を楽しんでいます。

あぁ、楽しかった。
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発起の瞬間。


コーディネーターを務めさせていただいております
福井県経営品質協議会の人づくり実践研究会で


どんな時に
人は伸びるのだろう?
伸ばすには何が必要なのだろう?


という対話をしました。


成功体験を振り返ってもらうと


追い込まれた時に伸びた


という答えがある一方で
落ち込んだ体験を振り返ってもらうと


期待された、褒められた、認められた時に
立ち直った


という答えが多く出されました。


いったい人は
追い込まれれば伸びるのか
褒められれば伸びるのか

追い込んでから褒めるのか
褒めながら追い込むのか


ただ褒めるだけなら
緩んでしまうのか、それとも伸びるのか


ギリギリまで追い込んで
独力で立ち直る時に伸びるのか


発起の瞬間はいつなのか?


今、そんなことを考えています。


次回、人づくり実践研究会(11月27日15時〜)では


伸びるという現象を
想像力、創造力という切り口で
改めて考えてみる予定です。


テーマは「そうぞうりょく?〜願う力、生み出す力〜」です。
追い込まれても願う力を失わない、なんてことが可能なのでしょうか?
可能だとしたら、なぜ?
そうぞうりょくの源に迫ります。

詳しくは、また後日。


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